年間最多勝記録更新 雑賀正光調教師(高知)インタビュー

2011年12月21日
年間最多勝記録更新
雑賀正光調教師(高知)インタビュー
取材・構成/斎藤修
写真/高知県競馬組合、いちかんぽ、NAR

 11月26日、高知競馬第8レースで雑賀正光調教師(高知)が管理するアタゴオーラで勝利。今年の地方競馬での勝利数を240とし、09年に角田輝也調教師(名古屋)が記録した239勝を上回り、地方競馬における調教師の年間最多勝記録を更新。年末までさらにその記録を伸ばし続ける雑賀調教師に、新記録を達成した感想や、他地区に遠征して活躍を続ける秘訣などをうかがった。

――最多勝記録の更新、おめでとうございます。特に今年前半、勝ち星のペースがすごかったですよね。

雑賀:実は昨年の半年間、あまり出走させてもらえなかったぶん、じっと力を蓄えていました。それが昨年の10月から使い始められるようになって、今年前半はたくさん勝つことができました。

――角田調教師が06年に初めて200勝を超えたときはものすごい記録だなと思いましたが、雑賀先生のはさらにすごい記録ですね。

雑賀:自分でもびっくりです(笑)。

――最近では、騎手でも調教師でも、勝ち星が上位の人に集中する傾向にあります。たとえば内田博幸騎手が06年に佐々木竹見さんの記録を更新した(中央での勝利も含む)とか、角田調教師がほとんど毎年のように200勝を超えるようになったとか。

雑賀:調教師でも騎手でも、信用があるかどうかでしょう。信用があるから馬主さんが馬を預けてくれるし、ジョッキーだったら馬に乗せてもらえる。もし自分が馬主だったら、やっぱり信用できる人に預けますよね。それこそ馬は、自分の娘や息子みたいに大事なものですから。

――先生は、そうした信用を得るために何をされていますか。

雑賀:競馬場ごとの賞金に対して預託料がどうなのかを考えて、良心的な価格にするとか、馬主になったつもりで経営する。それが信用になるかな。

――88(昭和63)年に紀三井寺競馬場が廃止になって、高知に移ったあと、しばらくは勝ち星があまり上がりませんでしたが、03年に初めて50勝、05年からはほぼ毎年のように100勝以上と急激に成績が伸びましたが、その要因は。

雑賀:それまでは信用がなかったと思うな。それと、交流レースを使うようになったのが原点かな。初めて外に出てみて、川島先生(船橋・川島正行調教師)のところの馬を見て、いや、すごい馬がいるんやねと思って。うちの馬と体つきから全然違うし、どうしたらこんな馬がつくれるのかと思って、それからです。

――積極的に交流レースを使うようになったのも、そのあたりからですか。

雑賀:たぶんそのあたりからでしょう。ケイエスゴーウェイという馬で外に出るようになって、やっぱり南関東がすごかった。特に川島先生の馬がすごい目につきましたね。筋肉から、目の輝きから、馬の活気から、自分が理想とする馬づくりをしてましたね。目からウロコが落ちると言うか。それが刺激になって、見よう見まねでいろいろ考えて、徐々にではあるけれども、自分では近づいてると思うんやけど。地方で一番強い馬を作れる調教師の馬をまず目指す。川島先生のことはほんとに尊敬しているんで、(自分の)歳がもうちょっと若かったらなあ。

――雑賀先生のところで活躍している馬には、中央で活躍している馬主さんの馬もけっこういますよね。

2011年黒潮菊花賞(リワードレブロン)
雑賀:“リワード”の宮崎さんとか、すごい馬主さんが戻ってきてくれたのが大きいですね。なんぼ一生懸命やっても、能力のない馬は能力ないし、能力のある馬をやらせてもらってはじめて結果が出せるという、川島先生も同じ考えだと思うんやけど、それが勝つには一番近道。

――遠征させるか、地元を使うか、という判断も難しいと思うのですが。

雑賀:高知は案外そういうところは簡単なんです。高知では(A-1特別で)勝っても1着賞金の18万円と、出走手当も入れて20万円ちょっとくらい。交流に出れば、手当から特別手当なども入れれば最低でも30万円。賞金が高いところになれば50万、60万。同じ走るんだったら、交流のほうがいいかな。ただ、地元の賞金がある程度高い競馬場だと、なかなかそうはいかないでしょう。馬主の立場も考えて、少しでも稼げるように、その積み重ねが今うまくいってるかな。

――地元の賞金が安くなったから、逆に踏ん切りがついたと。以前であれば、高知県知事賞なら1着賞金が800万円とか1000万円とかあって、その頃なら高知だけで十分やっていけたと。

雑賀:そうですね。

――先生自身のことについてお聞きしたいんですが、調教師になる前は騎手はされていたんですか。

雑賀:紀三井寺で1年半だけやりました。

――騎手になったきっかけは。

雑賀:親父が調教師で、どうしてもと言うので……。ただ、騎手試験を受ける前から体重が56キロくらいあったんで(笑)、もうイヤでイヤで仕方なかったんやけど、減量してなんとか受かって……。で、那須(地方競馬教養センター)の教官がうるさかった。近くに相撲部屋があったので、そっちに行ったらどうだって(笑)。しんどかったね。メシ食うために馬に乗ってるのに、食べれんちゅうのが一番せつなかった。

――調教師になったのはいつですか。

雑賀:騎手をやめたあと厩務員を15年くらいやって、紀三井寺で調教師になったのが33歳かな。

――調教師になって、2年目から80勝というのはすごいですね。

雑賀:最初の年は10月からだったので11勝だけですが、2年目からリーディングでした。目標がリーディングだったんで。

――紀三井寺が88年で廃止になって、高知にはすんなり移れたんですか。

雑賀:移れました。行こうと思えば、南関東でも高崎でも行けたんですよ。紀三井寺では私ひとりだけ。若いし成績もいいし。すでに高崎に移ることが決まっていて、紀三井寺が終わる前の2月に、嫁さんと一緒に入る予定の厩舎を見に行ったんですね、高崎まで。そしたらすごい寒かった(笑)。厩舎の前で、ピューと風が吹いて……。

――上州名物、空っ風ですね(笑)。

雑賀:嫁さんの出身が高知なもんで、「あんた、頼むから高知にして」って。で、結果的には高知に来てよかった。

――先生は期間限定のジョッキーを南関東などからたくさん受け入れています。たとえば本橋孝太騎手(船橋)は、高知から船橋に戻って活躍するようになりました。そういう若いジョッキーを高知に受け入れていることに対するお考えは。

ケイエスゴーウェイと本橋孝太騎手(09年ダイオライト記念)
雑賀:若い子は、高知に来ればたくさん乗れるし、高知競馬も騎手が少ないから助かる、両方ともプラスになってる。一番最初に預かったのが本橋だったかな。最初は言うこときかんし、中には競馬をやめようかと思ってる子もいる。そんな子でも高知に来て、数を乗せてもらえば、賞金が安くても、競馬の楽しさ、勝負の楽しさがわかるみたいなんで、そこらが若い子らにプラスになってるかなと、私は信じてるんですけど。

――期間限定騎乗の制度ができて、いろんなところで乗れるようになったのは、すごくいいことですよね。

雑賀:競馬場によっては1000勝、1500勝といういう上手な人ばかりを受け入れているところもあるけど、高知とか北海道とかのように、乗鞍がないから勉強したいと、そういう子を受け入れてくれる競馬場がちょっと少ないかなと思う。上手な騎手よりも、勉強したいという子を受け入れてくれる競馬場が増えればいいですね。

※インタビューは12月7日に行いました。

雑賀 正光 −さいか まさみつ−
1952年1月26日生まれ
管理馬初出走/1985年10月20日 紀三井寺第8レース(クイントスカイ、4着)
管理馬初勝利/1985年10月21日 紀三井寺第4レース(オノデントスター、4戦目)
通算成績/12,252戦1,688勝
主な勝ち鞍/あしべ特別(86年 アサヒローレル、88年 アマミユウシロー)、二十四万石賞(08年 ケイエスゴーウェイ、11年 アプローチアゲン)、黒潮皐月賞(08年 タケショウクイーン)、黒潮菊花賞(08年 タケショウクイーン)など、重賞14勝
※ 成績は2011年12月19日現在