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GRANDAME JAPAN

GDJ創設によせて 
〜次代のロジータを探す旅が始まる〜

 ロジータがメロウマダングの娘であることに気づいたのは3歳1月にニューイヤーカップを勝ったときだった。メロウマダングという一般的には無名の牝馬を覚えていたのには理由がある。デビュー戦をレコード勝ちする馬は少なくないが、続く2戦目もレコードで勝つ馬は滅多にいない。しかも、その両方を、たまたま川崎競馬場で目撃していたのだ。結局、メロウマダングは大成できずに引退してしまったが、やがて母としてクローズアップされる日を勝手に夢想しつつ、その名を記憶に刻んだ。
 だから、娘が重賞を勝っただけで心が躍った。その後のロジータの快進撃はむしろ想定外。まさか、あれほどの大物に育つとは思ってもみなかった。牝馬の枠を飛び越え、牡馬相手に南関東三冠を完勝。年末の東京大賞典で、岩手の怪物と言われたスイフトセイダイを馬なりのまま抜き去ったシーンは語り草となっている。
 引退レースとなった川崎記念も忘れ難い。あの日の川崎ほど平和で幸福感に満ちた競馬場を他に知らない。1990年2月12日。まだバブルの真っ只中で、すぐそこにカタストロフが待ち構えているなんて、誰も想像すらしていなかった頃のことだ。直線に入り、後続を引き離して、引退の花道を悠然と駆け抜けるロジータの姿に、スタンドを立錐の余地なく埋めた大観衆から拍手が鳴り止まなかった。ヨーロッパならまだしも、馬券優先の日本では稀有な瞬間。みんなロジータが大好きだったのだ。あまりに幸福な大団円。通常なら物語はそこで終わるはずだが、第二幕、第三幕が控えているのが牝馬の楽しさであり、面白さである。
 3年後、早くもロジータが競馬場に送り出した娘シスターソノが阪神3歳牝馬S(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)に1番人気で出走したときにも、たまたま阪神に居合わせた。ホーリックスとオグリキャップが驚異的な世界レコードを叩き出した伝説のジャパンカップで、息も絶え絶えにシンガリ負けを喫した母を観ている者からすれば、娘が芝のGTで本命に推されるのは荷が重過ぎると思っていた。結果は予想通り11着に惨敗。勝ったのはやがて歴史的名牝に成長することになるヒシアマゾンだった。
 その後は勝てないまま引退したシスターソノは、しかし、繁殖牝馬としては成功を収める。2番目の子レギュラーメンバーが川崎記念GTを勝ち、ロジータ、ロジータの子カネツフルーヴと合わせて、川崎記念3世代制覇の快挙の一翼を担ったのである。

 繰り返すが、だから牝馬は面白い。
 93年の阪神3歳牝馬Sに限っても、あれだけ強かったヒシアマゾンはまだ目立った産駒を出していないが、シスターソノ以外に、4着のツルマルガールが安田記念GTのツルマルボーイを、6着だったタックスヘイブンがダートグレード3勝のヒシアトラスを生んでいる。今後、ヒシアマゾンの子孫からとてつもない大物が出ることも十分ありうるだろう。子から孫、さらにはひ孫に血は確かに受け継がれ、眠っていた名牝の遺伝子が忘れた頃に突然甦るのも珍しいことではない。
 競馬は記憶のスポーツである。
 記憶しているものが多ければ多いほど、愉しみ、そして喜びは増す。とりわけ牝馬は覚えておいて損はない。牡馬が種牡馬となって子孫を残せる可能性は限りなくゼロに近いが、活躍した牝馬はほとんどが牧場に帰って繁殖牝馬となり、数年が経過すればその子がデビューしてくるのだ。

 今年1月、ロジータ15番目の産駒オースミイレブンがJRA新馬戦を楽勝。引退して20年が経過し、ロジータの神話はいまなお現在進行形である。 対照的に、地方競馬にとっては、なんと暗く長い20年間だったことか。地方競馬の開催成績はロジータが引退した翌年にピークを迎え、その後、坂道を転げ落ちるように減少の一途を辿った。低迷はいまも続き、なかなか反転のきっかけすら掴めない状況にある。こんなときだからこそ、原点に返る、という意味も込めて企画されたのが「グランダム・ジャパン」である。ともすれば地方競馬では忘れられがちだった生産との結びつきを強く意識して、牝馬に焦点を当てたシリーズだ。全国各地の牝馬重賞が年齢ごとに体系化され、ポイント制でシリーズチャンピオンを争う。勝者に喝采を、しかし、敗者に目を配ることもお忘れなく。その中に、将来、母として名を成す馬が隠れているかもしれない。

 合言葉は、ロジータふたたび。
 2010年、次代のロジータを探す旅が始まる。
ロジータ号
ロジータ号 (写真は1989年06月08日 東京ダービー優勝時)
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