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「鉄人」佐々木竹見 7153勝の足跡(第1回)


クローズアップ

2023.2.15 (水)

NARグランプリ2022
 特別賞受賞記念企画

青森から集団就職列車で上京

青森県上北郡上北町(現・東北町)で幼少期を過ごした佐々木竹見が騎手への道を歩み始めたのは、偶然の出会いからだった。

中学3年の夏、隣町の七戸町にある映画館へ友達と向かう山道を歩いていると、大きな荷物を持って歩いているお年寄りがいた。「荷物を持ってあげましょうか」と声をかけると、そのお年寄りは佐々木に、「体が小さいけど、スポーツは何かやるの?」と問いかけてきた。

佐々木は「野球でも何でも得意です」と答えると、「騎手にならないか?」と言われたという。

そのお年寄りとは、七戸在住の画家・上泉華陽(1892~1979年)。大正時代には、当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)に作品を献上したという記録もある、日本を代表する馬の画家だ。

当時、佐々木の家にも農耕馬がいて、小学校高学年の頃には裸馬を乗りこなしていたという。とはいえ、競馬に興味があったわけではない。映画館のニュース映画などで日本ダービーや天皇賞の映像を見て、騎手はかっこいいなあ、となんとなく思っていた程度。騎手という職業は考えたこともなく、むしろ高校への進学を考えていたという。それでも中学校の先生や家族と相談して、騎手になることを決めた。

上泉から紹介されたのは、川崎の青野四郎調教師。佐々木は、中学校の卒業式の3日後、集団就職の列車で上京した。

“集団就職”といえば、もうだいぶ昔のことになってしまった。戦後の高度経済成長期、都市部では労働力となる人手が不足していたことから、それを東北や九州など農村部の中学を卒業した若者に求めた。その若い労働力は当時“金の卵”とも呼ばれた。特に東北地方からは、上野駅に到着する集団就職専用の臨時列車も運行され、佐々木も同級生9人と一緒にその列車に乗った。

集団就職の生徒たちは、主に工場や商店などに就職先が決まっていて、上野駅で友と別れることになる。佐々木には青野厩舎の厩務員が迎えに来ていて、そのまま川崎競馬場に向かった。

実は佐々木には、中央競馬の騎手になる可能性もあった。中学校に中央競馬の騎手を探しているという話も来ていて、その話が回ってきた。しかしすでに川崎の青野厩舎に行くことを決めていたので断った。

「今(引退後)考えても、川崎に行ってよかったと思います」と佐々木は述懐する。

今でこそ売上や賞金は、地方競馬より中央競馬のほうがはるかに大きいが、高度経済成長期には、地方競馬のほうが売上が大きい時期があった。中央競馬で年間の総売得額が初めて1000億円を越えたのは1966(昭和41)年のことだが、地方競馬ではすでにその前年に1000億円を突破していた。佐々木が年間505勝という当時の世界記録を打ち立てるなど活躍をはじめたのは、ちょうどその頃だった。

デビュー7年目に世界記録

今の新人騎手は、地方競馬であれば地方競馬教養センターに、中央競馬であれば競馬学校に入学して訓練を受け、騎手免許試験に合格したあと、厩舎に所属して騎手デビューとなるが、当時はまず厩舎に入って下積みとして働くのが普通だった。

「厩舎は厳しかったですね。朝早く起きて、先生の靴磨きから、厩舎回りの草刈りから。そういうことをずっとやっていました」

当時、地方競馬の騎手の教養所は八王子にあったが、まず厩舎である程度馬に乗れるようになってから教養所に入所する。青野厩舎での下積みが約3年、その後、教養所での研修は4カ月。そして1960(昭和35)年6月1日付で騎手免許を取得。佐々木は18歳になっていた。

デビューは同年6月20日の川崎第5レース。ワカクサという馬で6頭立ての6着だった。

「当時は免許をもらったといっても、今の候補生のようにきちんと乗れるまでの訓練ではありません。前に馬がいたことは覚えていますが、ゴールに入ったのは覚えていません」

とはいうものの、デビューしたその年は約半年という期間で195戦37勝という成績を残した。

1961(昭和36)年3月9日、船橋・ブルーバードカップ(当時はアラブ系の重賞)をダイゴウイルソンで制し、デビューから1年と経たないうちに重賞初制覇を果たす。その2年目は165勝、3年目は214勝と勝ち星を伸ばし、4年目は171勝だったが、5年目の1964(昭和39)年には320勝をマークして早くも全国リーディングのトップに立った。

さらに6年目には401まで勝ち星を伸ばし、7年目となった1966(昭和41)年には年間505勝という当時の世界記録を樹立した。

1969(昭和44)年12月5日には通算2897勝に達し、当時の国内最多勝記録を更新。それまでの最多勝記録を保持していた須田茂(大井)の2896勝は20年をかけて積み重ねたものに対して、佐々木はわずか9年でその記録を越えた。

全国リーディングは、1964(昭和39)年から1977(昭和52)年までと、1980(昭和55)年の14年連続15回。南関東リーディングでは、さらに1978(昭和53)年、1981(昭和56)年と、15年連続17回トップの座にあった。

不動のリーディングが途切れたのは、2度の大怪我によるもの。15年連続の南関東リーディングがほぼ確定していた1978(昭和53)年12月9日、調教中に馬に蹴られ右大腿骨骨折。約1年の休養ののち翌年末に復帰。前述のとおり、1980(昭和55)年には190勝で再び全国リーディングとなった。しかし翌1981(昭和56)年12月15日には左大腿骨と膝下を複雑骨折。再び約1年の休養を余儀なくされた。

その後、南関東では桑島孝春(船橋)、石崎隆之(船橋)らがリーディングとなり、佐々木がトップに返り咲くことはなかったが、それでも1984(昭和59)年から1989(平成元)年、1992(平成4)年にも100勝超を挙げている。

2001(平成13)年7月8日の最終騎乗まで、積み重ねた勝利は地方競馬通算7151勝(ほかに中央2勝)。のちにその記録は的場文男(大井)によって更新されるが、当時は不滅と思われた圧倒的な数字を残し、59歳8カ月で引退した。(つづく、文中敬称略)

斎藤修 

写真 斎藤修、神奈川県川崎競馬組合、いちかんぽ