会心の東京大賞典 テツノカチドキ
18歳でデビューしてから59歳で引退するまで、地方競馬通算39,060戦7,151勝(ほかに中央20戦2勝、海外12戦0勝)、重賞143勝という成績を残した佐々木竹見が、初期の思い出の馬として挙げるのが、牝馬ながら1965年の東京ダービー(当時は東京都ダービー)を制したヒガシユリだ。
当初は中央に入厩したが、気性難などから未出走のまま2歳時に佐々木が所属する川崎・青野四郎厩舎に移籍してきた。5連勝のあと、4月4日の桜花賞(浦和)で2着。続いて4月27日の羽田盃に出走したが、ヒガシユリは右回りでは外に膨れるクセがあった。スタートして先頭に立ったものの1コーナーを回れず、外ラチのほうに逸走して最下位での入線だった。左回りならと出走したのが、この年、第1回として5月23日に行われた関東オークスで、ここも2着。
そして重賞タイトルがないまま、中10日で6月3日の東京都ダービーに出走。「このときは内枠に入ったのがよかった。外にもう1頭逃げ馬がいて、外から併せてくる形になって、コーナーをうまく回ることができました。直線を向いて単独で先頭に立つと、外へ外へと行きましたが、なんとか2着馬を振り切って逃げ切りました。青野先生も僕も、東京ダービーは初勝利だったので、嬉しかったですね」。第1回(1955年)を勝ったローヤルレザー以来、2頭目の牝馬による東京ダービー制覇だった。
そして佐々木が迷わず生涯のベストホースとして挙げるのが、東京大賞典を制したテツノカチドキだ。
4歳時に東京大賞典を制していたテツノカチドキだが、佐々木に手綱がまわってきたのは85年の5歳時、初騎乗となった大井記念(大井2500メートル、5月16日)を勝利。続いて初めて中央芝への挑戦となった地方競馬招待(福島芝1800メートル、6月16日)も逃げ切った。
芝への適性を示したテツノカチドキはジャパンカップが目標となり、その地方代表馬決定戦として行われた東京記念(大井2400メートル、10月31日)に出走。直線一騎打ちとなって、首の上げ下げの決着は、ロツキータイガーがアタマ差先着。しかし、ロツキータイガーの斤量が59キロに対して、テツノカチドキは60.5キロ。どちらが地方代表となるかは議論になったようだが、“先着した”ことで選ばれたロツキータイガーは、ジャパンカップに出走し、勝ったシンボリルドルフに1馬身3/4差で2着。芝でも勝っていたテツノカチドキが出走していれば、と思わないでもないが、佐々木は次のように振り返る。
「福島で勝ったときは良馬場でした。ジャパンカップは雨の重馬場で、かなり馬場が荒れていました。ロツキータイガーは道悪をうまくこなしていましたが、テツノカチドキは500キロ以上ある大型馬で、脚も長く、腰も甘かったから、芝の荒れた馬場では本来の走りはできなかったかもしれません」
さらにテツノカチドキで思い出されるのが、6歳時(86年)と、引退レースとなった7歳時(87年)の東京大賞典(当時は南関東限定、大井3000メートル)だという。
「6歳のときは、4コーナーまでずっと我慢させて追い出したんですが、腰が甘いから、手応えがあっても、追ってから伸びなくて5着でした。7歳の東京大賞典は、1周目のゴール板あたりでスローになったときに、一気にハナに行ったんです。前の年に我慢させて伸びなかったから思い切って行きました。バテる馬ではないですから、あのときは気分がよかった。2着に4馬身差をつけました」
また、騎手として晩年の活躍馬として挙げられるのが、デビューから無敗の快進撃を続けたツキノイチバン。デビューしたのは92年の3歳7月と遅く、もともと体質が弱かったこともあって休みながら使われた。当初は大井の若手騎手が騎乗して4歳12月まで楽勝続きで8連勝。佐々木が初めて手綱を取った94年、5歳1月のB1特別も6馬身差で勝って9連勝。そして重賞初挑戦となった金杯(大井2000メートル)では51キロとハンデに恵まれたとはいえ、ひとつ年下の南関東二冠馬(羽田盃、東京王冠賞)ブルーファミリーを3/4馬身とらえて10連勝とした。半年の休養ののち、この年から重賞格上げとなった8月のアフター5スター賞(大井1800メートル)も単勝1.6倍の人気にこたえて無傷の11連勝。しかし、いよいよ東京大賞典を見据え、断然人気で臨んだ10月のグランドチャンピオン2000(大井2000メートル)は、4コーナーで競走中止。左前脚骨折で予後不良だった。
サラブレッド相手にレコード勝ち アラブの牝馬イナリトウザイ
佐々木が不動のリーディングとして活躍していた時代は、サラブレッドとともに、地方競馬ではアラブ系のレースも盛んに行われていた。
「イナリトウザイは、440か450キロの小さいコロっとした牝馬で、どんな距離でも強かった」
(74年)3歳の5月に川崎の鎌倉記念(当時はアラブ系3歳の重賞)を勝って、7月には大井のアラブダービーを勝った。そのあと1戦して臨むはずだったアラブ王冠賞(大井、9月23日)は、「三坂さん(管理する三坂博調教師)が強気なコメントを出すもんだから、みんな回避しちゃって」と、頭数不足(5頭未満)でレースが不成立となった。
その代わりに出走したのが、10月4日の東京盃。当時は南関東限定だが、今と同じサラブレッドの古馬(3歳以上)による1200メートルの重賞。アラブの3歳牝馬ゆえ斤量49キロと恵まれたものの、なんと1分10秒5という大井1200メートルのコースレコード(当時)で逃げ切った。
そのイナリトウザイが産んだキタノトウザイは種牡馬となって、85年から95年まで11年連続でアラブの種牡馬ランキングで1位もしくは2位となり、多くの活躍馬や種牡馬を残した。
「種牡馬になったアラブでは、タイムラインも強かった」というタイムラインは、71年の2歳時には川崎の全日本アラブ争覇を制すると、翌72年には佐々木が初めて手綱をとった南関東アラブ3歳一冠目の千鳥賞(大井1800メートル)を勝利。二冠目のアラブダービー(大井2000メートル)もアラブのコースレコードで制した。その後、兵庫に移籍。しかしこの年から地方全国交流となった12月の全日本アラブ大賞典(大井2400メートル)には兵庫所属として遠征し、佐々木の鞍上で出走。これもコースレコードで圧勝した。その後、兵庫では摂津盃(園田1800メートル)で68キロを背負って勝ったという記録もある。
佐々木は、アラブ系3歳馬による全国交流の楠賞全日本アラブ優駿(園田)も3回制しているが、そのうちの1頭、80年のトライバルセンプーは北島三郎の所有馬として活躍した。(つづく、文中敬称略)
連載の次回記事はこちら



