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第1回・益田競馬場編


矢野吉彦

2023.4.14 (金)

平成の時代に吹き荒れた“地方競馬冬の嵐”は、いくつもの競馬場を廃止に追い込んだ。かつて、大勢のファンが見つめる中、多くの競走馬が熱闘を繰り広げたあの競馬場は、いまどうなっているのか?その跡地を訪ねる旅に出かけた。振り出しは、“日本一小さな競馬場”と言われた島根・益田競馬場から。

廃止寸前にできた事務所と特観席

JR山陰線と山口線が交わる益田駅から蟠竜湖線のバスで約15分、卸団地入口停留所で降りる。少し先の緑ヶ丘団地入口の交差点を左折して狭い道へ。両側に立ち並ぶ民家の多くは、このあたりの名産・石州瓦のオレンジ色の屋根をかぶっている。その道を5分ほど歩くと見えてくるのが山陰線の踏切。

それを渡った右側一帯がかつての益田競馬場だ。

いま、そこには東京シティ競馬(大井競馬)の益田場外発売所がある。

もとは競馬場の事務所と特別観覧席を併設していた建物で、1階に埋め込まれた「定礎」のプレートには「平成11年」(1999年)と刻まれている。

つまり、竣工は競馬場廃止のわずか3年前。赤字続きの競馬場が起死回生を狙って、一世一代の施設改善を実施した証しだ。

その建物と、北側を走る山陰線の線路に挟まれたところに、パドックや装鞍所などがあった。いまは跡形もなく、駐車場に生まれ変わっている。

ただ、出走馬がパドックとコースを往復する際に通った建物下の地下道は昔のまま(もちろん通行不可)。

また、パドックを見下ろす場所に祀られていた馬頭観音は、小さな祠(ほこら)だけが抜け殻のように残されていた。

跡地利用は道半ば

益田競馬場は一般道路を挟んで北側にスタンドエリア、南側にコースがあり、ファンは道路越しにレースを観戦していた。

益田市は競馬場跡地に1つの大きなものを作るのではなく、生活に密着したさまざまな施設を作ろうとしてきたようだ。とはいえ、いまだに空き地のままになっているところが大半で、コース跡を貫いて新設された道路も、通行する人や車両はほとんど見かけなかった。

ポツンと残された“スタート台”

そんな競馬場跡を一望するため、向正面奥にある高台へ通じる道を歩いた。その道は、1、2コーナーのカーブ部分に沿っていて、次第に上りになる。

カーブを回りきったあたりが800メートル戦と2200メートル戦のスタート地点だった“ポケット”の外側。そこまで歩いたとき、古びた“スタート台”がポツンと取り残されているのを見つけた。競馬が行われていた頃、その上に乗った発走委員が合図の旗を振り、ゲートを開けるレバーを握っていたところだ。

大井の場外発売所を除き、厩舎やパドック、観覧席や馬券売場などはすべて撤去されたというのに、“スタート台”だけがかつてあった場所に手つかずのまま放置されていた。使われなくなってから20年あまり。それは「その昔、ここに競馬場があったのだ」と訴えながら、たった1人で立ち続ける古老のようなたたずまいに見えた。

御神本訓史騎手の話

益田の時代を振り返ると、とにかくおもしろかったですね。デビューしたばかりの頃はレースに乗ることに興奮していました。

父(修さん)が調教師だったので、物心ついた時から馬はすぐ近くにいました。もちろん、子供の頃から馬に跨がっていましたよ。

騎手仲間や厩舎の人たちはみんなアットホームな感じで、ギスギスした雰囲気はなかったですね。小さい競馬場で騎手の数も少なかったので、騎乗数は多かったです。それがいい経験になりました。

馬主さんもほとんどが地元の人たち。お医者さんとか、建築関係の人、地主さんとか。馬が好きで走らせている人ばかりでした。

デビューしてすぐ、『日本海特別』で優勝したんですが、この時は重賞を勝ったという実感がありませんでした。益田では伝統のあるレースですが、重賞の“重み”をあまり感じていなかったんです。

でも『益田優駿』を勝った時は違いましたね。やっぱり“ダービー”ですよ。2002年6月のレースで初優勝しましたが。この時は“重み”を感じました。その2カ月後に競馬場が廃止になったので、今から思えば「勝っておいてよかった」と。

先輩騎手の中では、沖野(耕二)さんに憧れていました。他の騎手のバックアップに回ることが多かったところから、努力して頑張ってリーディングトップになった人です。なんといっても騎乗姿勢がカッコよかった。アブミは短いしフォームは柔らかいし。益田が廃止になってからは自分と同じ南関東(川崎)に来られて、今は厩務員をされています。

益田での騎乗はいい経験でしたし、いい思い出にもなっています。

〈御神本訓史騎手プロフィール〉
1981年8月25日生まれ。1999年4月10日、益田競馬第1レース・アラブ4歳(現3歳)戦、マンヨウポエムで初騎乗(6着)。同日第6レース・アラブC級戦、ホウワヒットで初勝利。成績表によると道中最後方からの追い込みだった。
同年7月の『第50回日本海特別』をシリウスファイターで勝って重賞初制覇。同年は80勝を挙げてリーディング4位に(1位は110勝の沖野耕二)。翌2000年は149勝で1位(2位は128勝の沖野)、01年は139勝で2位(1位は143勝の沖野)、益田最後の年となった02年は8月の最終開催日までに78勝を挙げて1位(2位は76勝の沖野)と、3年続けて沖野騎手と“マッチレース”を繰り広げた。
益田在籍時4年間の通算成績は1928戦446勝。

吉岡牧子さんの話

私の場合、騎手を目指してはみたものの、馬に乗るということを一から始めなければならなかったので、最初は怖かったです。馬にすがってやっと背中に乗るような感じ。でも乗ったら姿勢が保てない。若い馬(2歳馬)の馴致をやるんですが、ちょっとでも油断すると突っ走ってしまうんです。

当時、馬場の反対側、向正面の丘の上にきゅう舎がありました。馬に跨がり、内馬場の駐車場を横切って帰ろうとしたら、急に走り出して止まらなくなっちゃった。もう大変。なんとか落馬せずにすみましたが、冷や汗なんていうものじゃなかったです。

そうこうしながらだんだん度胸が付いてきて。女性騎手が少なかったことはあまり意識していませんでした。デビュー前にいろいろ取材に来られて、「これは珍しいことなんだな」と思ったくらいです。

私を預かってくれた渡辺進先生は豪放らい落な方でした。何でもオレに任せておけ、っていうね。初めのうちはおとなしくて走らせやすい馬を回してくださいました。でも、騎乗に関しては厳しかったですよ。脚を余して負けて怒られ、狭い内に突っ込んで前が詰まって怒られ、大外をぶん回して負けたら怒られ、もうどうしたらいいの?って。常に言われていたのは、「ハナ差でも勝てばいいんじゃ」ということ。まぁ当時は、いろいろ面倒をおかけしたと思います。

私にとっては岡崎準騎手がお手本でした。なんといったらいいか、うまく馬を持って行く、馬とケンカしない、というジョッキーでした。

思い出の馬というと、キンコーシルバーですかね。『日本海特別』に出るようなA級馬で、花本正三さんが主戦だったのですが、あるレースで花本さんのお手馬が重なって私が騎乗することになりました。そうしたらうまい具合に勝っちゃったんです。芦毛の逃げ馬でスピードがありました。それから何度も乗って勝たせてもらいました。

1992年に、その『日本海特別』で重賞勝ちしました。宮内重幸きゅう舎のニットウプリンスという馬でしたが、ふだんは上田浩貴騎手が乗っていました。その時も上田騎手が同じ厩舎の別の馬に乗ったので、私にニットウプリンスが回ってきたんです。乗りやすい馬でした。そう考えると、益田ではいろいろ恵まれたところがありましたね。

公営中京競馬の騎手招待レースで武豊騎手と同じレースに乗ったことがありましたが、あの時はドキドキでした。目の前にあの武さんがおる~って。しかもレースは乗ったことのない左回り。芝のレースも初めて経験しました。あの特別な感じは今も覚えています。

たぶん益田だから続けられたんだと思います。周りがみんなあったかかった。厩舎の人たちも他のジョッキーもお客さんも。ただ、馬を制御できず、止まらなくなってしまった時に聞いた風の音は今も忘れられないですね。

〈吉岡牧子さんプロフィール〉
1964年3月、山口県生まれ。高校卒業後、いったんOLになったが、一念発起して騎手を目指す。しかし年齢制限があって地方競馬教養センター騎手課程には入れず、益田競馬場の渡辺進厩舎に“入門”、厩務員を務めながら騎乗技術を習得した。1986年に騎手免許試験に合格。87年3月21日、益田競馬第4レース・アラブD級戦、自厩舎のサンインメリーでデビュー(5着)。同馬の次走となった3月29日の第4レースで初勝利。1995年4月に引退するまで、3511回の騎乗で350勝を挙げた。これは、2005年に宮下瞳が更新するまで、日本の女性騎手最多勝利数となっていた。

場内実況アナウンサー・宮内節子さんの話

私が場内実況を始めたのは1990年頃です。当時、実況専門の女性従事員の方が1人いらっしゃったんですが、その方に何かあったときの代わりがいないといけない、ということで配当のアナウンスなどをやっていた私に白羽の矢が立ちました。

それまで常勤の嘱託職員として開催日以外には事務の仕事をしていましたが、ハッキリ言って実況なんてやりたくなかったですね。自分にはとても無理だと。何しろまともに競馬の実況を聞いたことはありませんでした。開催日の仕事場は計算室で、そこには実況がかすかに聞こえてくるくらいだったんです。

とりあえず先輩の横に座って、双眼鏡で馬を追うことから始めました。平日はテレビ室で録画を見て練習です。

デビューまで1年の猶予を与えると言われていたのに、練習を始めて1カ月ほど経ったところで、いきなり喋らされたんです。初めは、スタートから3コーナーくらいまで私が喋って、その後は先輩にリレーというスタイル。大事なゴールのところを不慣れな私が喋って間違えたら大変ですからね。

それからわりとすぐに先輩が退職されてしまい、独り立ちすることになりました。私がやらざるを得なくなったんです。開催日は胃が痛くなって、胃けいれんを起こしたこともありました。それでも休まなかった、というより休めなかったんです。今度は私の代わりがいなくなったので。38.9度の熱が出て顔が真っ赤になった時も休みませんでしたよ。そのうち女性従事員の方が1人、実況を始めたので、少し楽になりましたけどね。そして結局、2002年8月の競馬場廃止の日まで実況の仕事を続けました。

岡山の出身で、岡山弁のイントネーションが抜けず、よく上の方から「おかしい」と言われました。そう言ってきた方も“益田弁”だったんですけどね。

私が喋り始めた頃のジョッキーと言えば、田原の真ちゃん(田原真二騎手)とか岡崎の準さん(岡崎準騎手)とか。マキちゃん(吉岡牧子騎手)が来た頃のことも覚えています。最初、渡辺先生からは「女の子が騎手になりたいと言うてきたけど断った。ダメダメって」と聞いていました。それでもひとまず受け入れたんですね。まぁその頃の厩舎は“3K”(暗くて、汚くて、臭いところ)でしたから、すぐに辞めてしまうだろうと思っていたんじゃないですか。ところがそのうち、「コイツは根性ある」って言い出して。本人は相当頑張ったんだろうと思います。そうそう、御神本クンのことも子供の頃から知っていましたよ。ちっちゃい時から馬に乗せてもらっていたのを覚えています。

いろいろキツいこともありましたが、競馬場の仕事は飽きなかったですね。開催日は実況、平日は一般事務。イベントの準備もやったりして、メリハリがあったからでしょうね。

益田競馬場の思い出

“日本一小さな競馬場”は、“日本一おもしろい競馬場”でもあった。まずはなんと言っても、道路をはさんでレースを見るという構造がユニーク。土曜日の開催中には、馬券を握りしめたオジサンたち(若い女性はめったに見なかった)と馬場を走る馬たちの間を学校帰りの子供たちが歩いていた。そんな光景は他では見られないものだった。

単勝と複勝の発売窓口がそれぞれ1つずつしかなかった。窓口の小さな穴に手を突っ込んでお金と馬券を受け渡しする。昔の競馬場では当たり前のことなのだが、益田では穴の周りに1から8までの数字が書いてあった。レースはフルゲート8頭。客が買いたい馬の番号を指さしてお金を渡すと、その馬券を発券してくれるという仕組みになっていた。いわば“タッチパネルの元祖”だ。

入場口の前で専門紙(1990年代中ごろまでは『馬』と『シーホース』があった)を売っていた男性が、馬券発売が始まると場内で場立ちの予想屋さんに変身したり、着順や払戻金などは数字が書かれたボードや黒板を使って掲示したりと、とにもかくにも“家内制手工業”のような競馬場だった。

ある日の第1レース。ファンファーレが鳴ってゲートインが始まっても、場内実況が聞こえてこない。レースは発走し、蹄とムチの音、騎手の声だけが響き渡る中(スタンドの観客は数人くらいで、みな無言のまま)、各馬はゴールしてしまった。宮内さんが、“2人目”の実況アナウンサーに抜てきされたのはその後のことだと思う。

競馬場廃止の前日に実況席を訪ね、宮内さんに初対面を果たすと、「きょうのメインレース、実況してください」と言われ、お言葉に甘えて喋らせてもらった。2着が大接戦で、長い長い写真判定になったことを覚えている。改めて調べたところ、それは「益田大賞典」という重賞だった。1着賞金は25万円で、ハナ差の3着に敗れた馬には、御神本騎手が乗っていた。

益田競馬場の行き帰りには、今はなきブルートレインをよく利用した。山陰線経由で行くなら浜田行の「出雲」、山陽線と山口線を使うなら「さくら」か「はやぶさ」。それ以外の「あさかぜ」や「みずほ」などは小郡(現・新山口)を通過していたはずだ。帰りは、最終レースまで見て競馬場を出るとその日のうちに東京に戻ることはできなかった。山口線の特急「おき」で小郡に出て新幹線に乗り換え、徳山で小郡は通過の「みずほ」を待つ、というようなことをしたと思う。また、温泉津(ゆのつ)温泉に泊まったり、九州の競馬場に“転戦”したりするスケジュールを組んだこともあった。

1993年、競馬場からすぐのところに石見空港が開港し、東京からの直行便が飛ぶようになった。空港から競馬場までは、下り坂をゆっくり歩いて20分ほどの距離。“東京から一番遠い競馬場”が、たちまち“とても行きやすい競馬場”に変わった。でも、私が飛行機を利用したのは、2002年8月、廃止前日のレースを見に行ったときの1度だけだった。

掲載されている写真のうち、特に表記のないものは2022年11月6日筆者撮影。
また、宮内重幸さんからの写真ご提供と宮内節子さんへの取材にあたっては、「さんさん牧場」*の施設長・大賀満成さんに仲介のご協力をいただいた。ここに厚く御礼申し上げます。
*「さんさん牧場」は、吉岡牧子さんの話に出てきた競馬場向正面奥の厩舎を転用した牧場。益田市の障害者就労施設で、体験乗馬やホースセラピーなどを通じて馬と触れ合うことができる。施設長の大賀さんは益田競馬の元厩務員。

矢野吉彦 

写真 矢野吉彦、いちかんぽ、宮内重幸、宮内節子

矢野吉彦(やのよしひこ)

1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は269か所に及ぶ。