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マンダリンヒーローの挑戦 ~ケンタッキーダービー~


クローズアップ

2023.5.15 (月)

TCKから初めてのアメリカ遠征
 辿り着いたダート3歳頂点の舞台

サンタアニタからケンタッキーへ

サンタアニタダービーをハナ差2着でゴールして、40ポイントのケンタッキーダービーポイントを獲得したマンダリンヒーロー。昨年までなら出走がほぼ約束されていた数字だが、今年からは対象レースの5着までにポイントが加算されるようになったこともあり(昨年までは4着まで)、フルゲート20頭に対して、ポイント対象の全レースが終了した時点で出走順位25番目まで下がってしまった。それでも藤田輝信調教師は絶対に出走できると信じていた。

サンタアニタダービー後、そこまで目に見えて分かるようなダメージもなく、日本で使った後と変わらない状態だったマンダリンヒーローは、4日間の休養の後に馬場入りを再開し、その2週間後には追い切りを消化。そしてレースの9日前(4月27日)にJRAの2頭が滞在しているチャーチルダウンズ競馬場の国際厩舎へ入厩した。

「先に飛行機で移動したのですが、マンダリンヒーローを迎え入れた時の雰囲気は前日に見た時と変わらない状態でした。1カ月弱1頭で調整してきたので、隣に馬がいることに多少興奮している様子もありましたが、すぐに落ち着きましたし、逆に一緒に調教に行けることで先導して頂いたり、助けて頂けた部分も多かったです」

そう話す堀田優志厩務員をはじめ、マンダリンヒーローに関わるスタッフの下、調整は順調に進められていった。しかし、全頭が最終追い切りを終えた段階でも出走が確定しない。藤田調教師はプリークネスステークスに切り替えた方がいいのではないかと諦めはじめた。その背中を押したのが新井浩明オーナーだった。

「我々のことは気にしなくていい。元々私は藤田さんの夢に乗ったわけだから最後まで諦めずに行こう!」

補欠からの繰上りはレース2日前

出走決定の報が届いたのはレース2日前の夕方。もはや日本のみならず、米国でもたくさんのファンを獲得しているだけにSNSは喜びの声で埋め尽くされた。だが、マンダリンヒーローの出走が決まった裏では、何らかの理由で出走を断念せざるをえなかった馬と関係者がいる。彼らの気持ちを考えると嬉しい気持ちはありつつも素直に喜ぶことはできなかった。新井オーナーもレース当日朝のインタビューでこんな発言している。

「こちらで共にしたコンティノアールもですが、他の馬に病気なり、ケガがあった訳ですから、それがちょっとね。自分も反対の立場だったら辛いですし。そこは微妙な気持ちがありますよ」

最終的に出走へ漕ぎつけられたのは18頭。これはコロナウイルスの影響で開催が9月まで延期された2020年(15頭)を除けば、アメリカンファラオが三冠を達成した2015年以来のこと。それでもケンタッキーダービーは米国の“スポーツの中で最も偉大な2分間”。1つ前の芝のGIターフクラシックが終わると場内の空気は一気に変わった。

「ケンタッキーダービー数日前の枠順決定で補欠馬枠に入った時は、何とかならないものかと願っていましたが、無事出走が確定し心踊る気持ちでいっぱいです」

木村和士騎手は初めてのケンタッキーダービー騎乗に臆することもなく、発走40分前に行われたフォトセッションに笑顔で参加した。

「当日は15万人のお客さんが入ると聞いていたのでとにかくゲートに入れるまでトラブルがないように祈る気持ちです」

藤田調教師は緊張の面持ちでパドックに足を踏み入れると、22番の馬房に移動して装鞍の準備に取り掛かった。

「家内も来る予定だったんですよ。帽子まで用意して。もうケンタッキーダービー出走はないだろうと思って、プリークネスステークスの方は地味な帽子かなって。そんなことを話している間に出走が決まって自分だけ慌てて飛んできちゃったものだから、嬉しいも何も動揺しています」

新井オーナーはパドックの中央で落ち着かない様子だったが、かつて南関東で騎乗した後に米国で活躍した土屋薫元騎手に声をかけられるとほっとした表情を見せた。

しばらくするとマイオールドケンタッキーホームの大合唱が始まり、出走馬達はスタンド前へと移動していく。

「藤田調教師や主催者、そしてSNSの反応を見ても皆さんが喜んでくれていますので、無事スタートラインに立ててほっとしています。マンダリンヒーローの頑張りはもちろんですが、私達がよく過ごせるように環境を整えてくれた関係者にも感謝の気持ちでいっぱいです」

そう話していた堀田厩務員は、自分達の手を離れてゲートに向かうマンダリンヒーローを見届けると笑顔を見せ、スタッフ達と握手を交わして待機所へと向かった。そして、その様子を見届けた藤田調教師は感謝の思いで胸がいっぱいになった。

「マンダリンヒーローはこちらの心配もよそに大歓声の中、堂々と大観衆の前を歩いていき装鞍、返し馬を終えてゲートに向かいました。生まれてまだ3年しか経っていない子にこんな事ができたのは、付きっきりで世話をしてくれた堀田厩務員と、現地でサポートしてくれた吉野さんを信頼しきっていたからこそです」

タフな展開を全力で駆け抜け12着

間もなくして大歓声と共にケンタッキーダービーはスタートした。大外から2頭目のマンダリンヒーローは木村騎手が好スタートを決めると中団後方のポジションへ。しかし、2ハロンごとのラップで22秒35、45秒73、1分10秒11という先行馬を苦しめるペースに周囲がポジションを上げていく中、取り残されて4コーナーでは14番手まで下がってしまう。それでも木村騎手が必死に追うとその激に応えて最後まで全力で走り抜いた。結果は12着。

「初めてのケンタッキーダービーにも関わらず堂々と全てをこなしてくれました。抜群のスタートから中団のポジションへ。直線も最後まで諦めずに追い続けてくれて悔いのない騎乗をしてくれました」

藤田調教師からその騎乗ぶりを絶賛された木村騎手は、次のようにレースを振り返った。

「スタートからスムーズに良いポジションを取る事ができて、プラン通りの位置取りでレースを運ぶ事できました。ただ、向正面から3コーナー辺りにかけ、各馬がピッチを上げる中、マンダリンヒーローも必死に食らいついて行こうとしたのですが、少し苦しくなりポジションをキープすることができなくなってしまいました。最後まで一生懸命走ってくれました」

そしてサンタアニタパーク競馬場に比べて硬い馬場の影響について質問をするとこう答えてくれた。

「サンタアニタダービーの時は、少頭数でレース展開的にもマンダリンヒーローにとって終始リラックス出来る形で運べました。ただ、今回のレースは常に他馬からのプレッシャーを受けつつ頭数も増え、前半の800メートルは45秒台とハイペース。なおかつ前走よりもより強い馬達が集まっていたので、馬場の影響というよりはとてもタフなレースでしたね」

勝利したのはマンダリンヒーローのやや後ろのポジションでレースを進めていたメイジ。前走のフロリダダービーでは、今回出走していれば大本命だったフォルテの2着に敗れている。

「サンタアニタダービーのゴール前でしのぎを削ったプラクティカルムーブとスキナーの分も頑張らなければいけないという気持ちです」

これはレース前に新井オーナーが口にした言葉だが、勝ったメイジもまた、朝の獣医検査で右前脚蹄に内出血が発見されて数時間前に出走取消となったフォルテの無念を背負って走っていたのかもしれない。

サンタアニタダービーポイントが結実

後日、およそ2カ月に及んだマンダリンヒーローの米国挑戦について振り返って頂いた。

「マンダリンヒーローは帯同馬もいない中、サンタアニタパーク競馬場に入る時から3歳馬で初の海外輸送とは思えない程の落ち着きを見せ、終始堂々としていました。とても賢い馬で素直に自分のやりたい事に従ってくれるので、とても乗りやすかったです。ここまで一緒に頑張ってくれたマンダリンヒーローには感謝の気持ちでいっぱいです。そして、この挑戦が足掛かりとなって、さらなる日本馬の挑戦と地方競馬の発展を心より願っています」

こう話したのは木村騎手。レース前日の日付が変わる頃に到着してケンタッキーダービーに騎乗。そして翌朝にはカナダに戻り、早速、ウッドバイン競馬場で勝利を挙げた。

「サンタアニタダービー遠征が正式に決まったのが2月末だったため、通常業務に加え、遠征準備で忙しくなりました。限られた時間で上手くいった要因は、アメリカ遠征をご経験されたJRAの先生方やオーナーにアドバイスを頂けたことや元々アメリカ競馬に非常に興味があり色々と調べていたこと。また2013年と2015年に韓国へ遠征した経験があったことでした」

こう切り出したのは藤田調教師。「波瀾万丈な2カ月でしたが、大井競馬場からケンタッキーダービーへの道を示せたので、あとはみんなで勝ちに行くだけですね。死ぬまでにケンタッキーダービーを勝ちたいです」と今後の抱負を話すと次のように感謝を述べた。

「サンタアニタダービー出走枠の制度を作って下さった特別区競馬組合の皆さまに心から感謝します。この制度がなければ全ては始まっていませんでした。今後は私の大好きな大井競馬場や地方競馬に恩返しが出来たらと思っています」

今回のマンダリンヒーローの活躍を見て藤田調教師に馬を預けてみたいという馬主の声も聞く。サンタアニタパーク競馬場と大井競馬場の友好交流提携事業の一環として2018年からはじまったこのシステムは花を開き、実を結んだ。それは多くの種となってまた新たな花を咲かせていくことになるに違いない。

取材・文・写真 森内智也