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イグナイター世界への挑戦 ~武田裕次厩務員が見た世界~


クローズアップ

2024.04.16 (火)

イグナイターと過ごした1カ月
 ドバイ遠征を経験しての思いは

馬道を上がって地上に出ると、4万8432人が埋め尽くす目の前のスタンドから歓声が上がった。「うわ、すごい……!」イグナイターを曳く武田裕次厩務員に一気に緊張が押し寄せた。2013年兵庫ダービー馬ユメノアトサキをはじめ、これまでの担当馬には16年新春賞など重賞3勝のアクロマティック、16年菊水賞シュエット、重賞5勝ナチュラリーなどが名を連ね、地元で大舞台を幾度も経験してきたが、JRA・GIの舞台は規模が違った。

2年連続NARグランプリ年度代表馬に輝いたイグナイターは今年2月、フェブラリーステークスGIに挑戦した。前半600メートル33秒9の超ハイペースを2番手で追走しながらも、直線は先頭に躍り出しそうな場面を見せた。11着に敗れはしたが、その走りに自信を抱いた野田善己オーナーはレース直後、ドバイゴールデンシャヒーンGIへの出走を決意した。

栗東での検疫で得られた経験

かくして決まったイグナイターのドバイ遠征。当初こそ「夢のその先で、少し浮かれていた」という武田厩務員も、次第に目の前の現実に直面した。

「準備が大変で、万が一、抜け目があったらいけないので慎重に用意を進めました。結果的に、カイバ桶は現地の馬房に備え付けられていたので不要でしたけど、洗濯機の台数が少なくて、自分の下着やシャツが足りなくなりました」

準備を整え、海外遠征の一歩目として輸出検疫に向かったのはJRA栗東トレーニングセンター。過去にコスモバルクが05年香港、06年と07年シンガポールの計3回、美浦トレセンで輸出検疫を受けたことがあったが、栗東トレセンで地方馬が輸出検疫を受けるのは初めてだった。人馬共に慣れない環境で、武田厩務員は「初日にスタンドへ調教を見に行こうとしたら迷って、翌日は地図を片手に何とかたどり着きました」と苦笑する。しかし、ドウデュースが日々の調教で先導してくれたり、荷物置き場を挟んで隣の馬房にいた21年日本ダービー馬シャフリヤールの担当者がドバイでの情報を教えてくれるなど、周囲の人々に助けられた。

馬房は園田競馬場よりも広く、イグナイターに変化をもたらした。

「園田では午後に僕が厩舎に行くと、蹴りはじめます。エサをあげても、食べながら蹴っていて、これまで何カ所か壁に穴を空けたので木の板とドリルで補修しました。それが、栗東では落ち着いていました」

さらに、調教前の運動には園田の約2倍の40~50分をかけられた。これは担当馬が2頭の栗東では標準的な前運動の時間だが、園田では3~4頭を担当する厩務員が多く、限られた調教時間の中でかけられる時間は必然的に短くなる。

「1頭に付きっきりだからできることだと感じました」

こうして初めての環境をプラスに変えて、JRA馬とともにドバイ行きの飛行機に乗り込んだ。

「盛岡競馬場への遠征を何回も経験していたことが大きくて、園田から盛岡は約15時間。ドバイへの空輸もトータルで同じくらいの時間でした」

環境の変化をプラスに変えて

ドバイに着くと、栗東よりさらに広い馬房だった。落ち着き払うイグナイターを見て、一時期は嫌な予感も頭をよぎったが、こう分析する。

「内弁慶なところがあるんです。知らない人が来たら大人しくて、猫を被っていました。それに、ドバイは広々した環境で落ち着いたこともあるんだと思います」

現地スタッフが馬房掃除をしている間、芝生スペースでのんびりと草を食む姿もドバイならでは。「こんなことは無理だと思っていましたけど、案外できるんだなと思いました」

その姿からは“点火剤”を意味する馬名を付けられた育成時代の面影は感じられなかった。園田では乗り運動をする区域のラチが外れて斜めになっているだけで立ち上がって反転するほど神経質な面も見せるが、ドバイでは「ビビリな日もありましたけど、ドッシリしている日もありました」と環境の変化はここでもいい方に作用した。

そして、レース当日になると一気にスイッチが入り、「背中を使って抑えながら曳いても、僕の足跡がわだちになるくらい」といういつもの力強さを見せ始めた。

「装鞍所からどんどん力が入ってきました。最近はパドックを一人でも曳けるかなと感じる時もあったんですけど、『これは一人じゃ絶対に無理だ』と思いました。兵庫移籍初戦の3歳の時、一人で曳けると思っていたらとても無理で、調教師補佐に頼んで二人で曳いたんですけど、それでもググ~と引きずられて『なんじゃこれ』とパワーにビックリしたことを思い出しました」

勉強を兼ねてドバイ入りしていた石橋満調教師(兵庫)と二人で曳く予定に当初からなっていたことは幸いだった。ただ、「パドックの中に人がたくさんいて圧迫感がある分、園田競馬場より狭く感じました」と石橋調教師。武田厩務員も「人が近すぎて、蹴ったらどうしよう、と思いながら曳いていました」と振り返る。一方で、フェブラリーSの時のように緊張はしなかった。

「案外、そんなに上がりませんでした。メイダン競馬場は東京競馬場に比べて上から見られている感じがなくて、冷静でした」

あとは、笹川翼騎手(大井)にバトンを託し、願うだけだった。

「まずは出遅れだけはしないように、と思っていました。それさえなければ、いいやと」

しかし、1番枠で最初にゲート入りしたイグナイターは、1頭ずつゆっくり進む他馬のゲート入りの間、落ち着きすぎてしまった。そして、ゲートが開いた瞬間、周りの馬に比べてやや遅れ気味のスタートとなった。

「出遅れたというより、隣の馬が速すぎましたよね。ゲート内で隣のタズのタイグ・オシェア騎手から『俺の馬、速いぞ』と言われたらしいです」

結果的にタズが優勝したのだが、レース2日前のチーム・イグナイターの会食で警戒していたのがこの馬だった。

3番枠のドンフランキーが逃げるだろうから、その直後につけられたら理想だけど、ポイントは2番枠のタズがどのくらいダッシュが速いか――陣営はその点を気にかけていたのだ。

「枠が違えば、結果もまた変わっていたかもしれません。運が悪かったですね。全てが上手くいくことなんて滅多にないでしょうけど、スムーズにいっていれば、2着はあったのでは、と思うレースでしたし、そこまでいけばもっと好勝負になっていたのかもしれません。直線は声が出ました。ゴチャついて、他馬に迷惑をかける結果になりましたけど、『うぉー、来た!』と。全てがスムーズにはいかない中でも5着で、いずれ勝つチャンスもあると思えました」

海外初戦は確かな手応えを掴んだ一戦ともなった。

他陣営にも続いてほしい

その後、イグナイターは4月3日にドバイを発ち、翌日に栃木県の地方競馬教養センターに到着。海外からの長距離輸送は微熱が出る馬も多いようだが、10日までの輸入検疫中、イグナイターは体温が上がることなく、元気に過ごした。

「イグナイターでよかったです。これだけ何もない馬も珍しいと思います。一度、検疫期間中に角馬場で運動をしたんですけど、ここはジョッキーの養成所だから騎乗姿勢を確認するための大きな鏡が馬場にあって、それにすごく物見したんです。だから、それ以降は厩舎周りの運動に留めています。ただ、馬は元気ですけど、ちょっと僕が参っています(苦笑)」

というのも、輸出検疫より遥かに規制が厳しい輸入検疫では、基本的に規制エリア内で1頭と1人だけで過ごす。ご飯を買いにコンビニに行くには、規制エリアから出る時と帰ってきた時の2回、頭からつま先まで全身を洗わないといけない。その大変さはあるが、ドバイ遠征をしてよかったと感じている。

「特に短距離において、国内でGI/JpnIを勝てる馬なら、海外に行っても勝負になるといういい物差しになったと思います。だから、他陣営にも続いてほしいです」

もう一つ、厩務員の立場として勉強になったこともあった。

「海外遠征中は1頭にいくらでも時間をかけて見ることができるので、よかったです。それに、JRAや海外のやり方を見ることもできます。ドバイでは馬体を洗う時に馬を張ることはなくて、シャワーはお湯じゃなくてぬるま湯。そういったことを実際に感じることができました」

振り返ると、武田厩務員は馬の仕事をしたくて育成牧場で働いていた頃、JRAの厩務員志望だった。しかし当時は競争率が高く、一度は諦めた世界。サラリーマンをしていたが、「やっぱり好きなことをしたい」と再び飛び込んだのが園田・姫路競馬の厩務員だった。

「地方競馬は比較的勝ちやすい点がいいと思います。南関東は年1勝するのも大変なようですけど、園田・姫路なら5勝前後できる厩務員が多いです。勝つことで面白さを感じる世界ですからね」

武田厩務員の場合、周囲が諦めかけた馬や下級条件のレースで勝つことにひと際やりがいを感じている。園田・姫路で最下級のC3クラスであっても、レース前は万が一腹痛を起こしてはいけないと、自身はご飯を抜く。ドバイでも、朝食を食べて以降は18時25分のレース発走まで何も口にしなかった。それだけ、全てのレースに全身全霊をかけ、「なぜ馬がチャカついているのかを考えて、基本的には怒らないようにしています」と根気強く馬と向き合ってきた先に、イグナイターのドバイ遠征が繋がっていた。

そして、今回の遠征は地方競馬に携わる人々だけでなく、ファンや将来競馬界を目指す若者にも夢と希望を与えた。

「これから厩務員になりたいと思っている人は、新聞記事や雑誌を読んだりして、競馬界や仕事内容をよく調べてこの世界に入ってきてほしいなと思います。昔と違って、今は経済面は苦労しないと思います。いま、園田・姫路競馬は輸出検疫施設を作ろうと動いています。例えば高知や佐賀の馬がその施設を使って海外遠征をしてくれたら、嬉しいなと思います」

イグナイターの海外遠征が、地方馬の新たな道を切り開いていくかもしれない。

大恵陽子

写真NAR、大恵陽子、森内智也