地方競馬からイグナイターの参戦もあり、より熱く盛り上がった今年のドバイワールドカップデー。世界の壁の厚さを知ることにもなるが、そのドバイに19年前に挑んだ馬がいる。アジュディミツオーである。
「あの年は、暑くなるのが例年より早いと現地の人が言っていました。暑さに弱いアジュディミツオーにとっては厳しい条件が重なっていたと思います」と話すのは当時は小学5年生ながら内田博幸騎手に付いて通訳をしていた川島光司さん。川島正行調教師 (故人)のご子息で、現在は兄・正一厩舎の厩務員であり笹川翼騎手のエージェントも務めている。時を経て今回のイグナイターの遠征には笹川翼騎手をサポートするため同行。唯一、アジュディミツオーとイグナイター両馬の激戦を目の当たりにした存在だ。あの年のドバイワールドカップに出走した日本馬はアジュディミツオーただ1頭だった。
「アジュディミツオーは〝俺が王様〟いや〝暴君〟かな。とにかく激しい気性の持ち主でした。芯柱の通った馬だから気持ちを逆なでしないように宥めながら仕上げている藤川伸也厩務員の大変さといったら、もう。その激しさがレースで爆発するんでしょうね。その一方で、女性や子供にはまったく牙を剥かない。甘える仕草を見せるくらい。自分に対して何もしてこないのがわかっているんでしょうね。でも女馬が好きで猪突猛進。アジュディミツオーが馬場に出ている時には他の厩舎が気を使って牝馬を馬場に出さないようにしていたというエピソードもあるくらい」と言う話を聞くと藤川厩務員の日々のご苦労がうかがい知れる。まして遥かドバイの地でどう過ごしていたのだろうか。
「ドバイに挑戦しようと先生から話があったのは3歳で東京大賞典を勝ったあとでした。レースの1ヶ月前に現地入りしましたが、周囲に経験者がいないからどんな道具を持っていって、どういう流れで仕事をしたらよいかわからない。とにかく暑くて、耐えられるのかも心配になりました。それに帯同馬もなく、たった一頭で渡ってますから馬が寂しがって鳴きっぱなし。検疫の関係で自分と接触してはいけない期間もありましたので余計です。せめて帯同馬がいたらと悔やまれるところです。それでもだんだん慣れて、レースの頃には力を出せる状態まで仕上がって、結果は6着でしたがよく頑張ってくれたと思っています」とドバイ遠征を振り返った。
アジュディミツオーは2001年6月2日、藤川ファームで誕生した。競走馬としてはかなりの遅生まれだが、「生まれて1週間もしないうちに見に行ったが、走る馬っていうのはその時から何かが違う。目の輝きだったり印象づけるものがある。ミツオーの馬相は別格だった」と川島正行調教師は描いていた以上のインパクトを受けたという。ミツオーも母オリミツキネンも懇意にしていた織戸光男さんの所有馬だった。繁殖入りする際に配合を相談されるとボールドルーラーの血のクロスを持つ種牡馬をつければスピード値が高まるだろうとアジュディケーティングを提案。ミツオーは川島調教師が世に送り出した作品でもあった。名前の由来にもなっている織戸光男さんはミツオーの活躍を見ることなく亡くなられたが、ご子息の織戸眞男さんに遺志は引き継がれている。
「気性が激し過ぎて、この馬はどうなってしまうんだろうと思った。人を寄せ付けない。噛みついてくる。カイバを与えるのも運動するのもひと苦労でした。でもその一方で馬体のバランスが良くて2歳にしてはトビ抜けてましたね。調教であまりに動きが違っていたんで当時うちにいたオープンクラスの古馬と併せ馬をしたら互角に動いてヒケをとらなかった。この気性がいい方に向いてくれればいいなと思ってました」と藤川厩務員。諸刃の剣だった。
アジュディミツオーは8歳になるまで走ったが、戦績はドバイを含み27戦10勝と少ない。その中でも強烈なインパクトを残したのは5歳の帝王賞だろう。ジャパンカップダート、フェブラリーステークスと中央にも挑戦したが、落鉄、出遅れとスピードを生かす競馬はできなかった。この時の勝ち馬はいずれもカネヒキリ。そして帝王賞で再び対戦する日がやってきた。
「ミツオーはこの時が競走馬として一番といえる状態だったかもしれません。マイナス16キロと体重は減ってはいたけど動き、馬体の張りもピーク。自分でカラダを作るんですよ。カイバとか食べない時もあって自分自身で調整する。だから馬体重の数字は気にしたことありません」と藤川厩務員。
見事逃げ切って、一歩また一歩と猛追するカネヒキリを封じた。東京大賞典連覇、川崎記念、かしわ記念を制し、NARグランプリ年度代表馬にも2度選ばれているが、カネヒキリとの熱戦は歴史の残る最高の輝きだった。
しかしレース後、カネヒキリの負傷が判明。ミツオーにも同様に脚元に反動が来てしまった。骨りゅうに加えて左前の裂蹄。激戦の傷跡は大きかった。
「半年後の東京大賞典に間に合わせたい」と三連覇が掛かっていただけに周囲の人間に焦りがでた。完全な急仕上げで入れ込み、夢は散った。そして反動からすっかりリズムを崩してしまった。
トップアスリートは頂天にいる限り常に先頭を走らなければならない。王者ゆえの苦悩の渦中にミツオーはいつもいた。速さの代償は蹄の痛みだった。
6歳のかしわ記念では2着に粘り復活の兆しを見せたがダメージも大きく再び長期休養入り。約10ヶ月後のダイオライト記念で再起をかけた。
「ダイオライト記念で戦列復帰させたことは急ぎ過ぎだったのかもしれないね。母のオリミツキネンも蹄の弱い馬だったがミツオーにも蹄の弱さがつきまとって、しまいには蟻洞(ギドウ)という蹄の病気になってしまった。もっと時間を掛けてあげればよかったのか、1戦使った後どうもしっくりいかず再び休養させることにした。今度は焦らずゆっくりね。目処を立てずにミツオーのことだけを考えて待ってあげたい」。
川島正行調教師は1年をかけてミツオーに輝きが戻ることを願ったが叶うことはなかった。
8歳で引退。種牡馬となって産駒を送り出し、23歳になる現在は故郷の藤川ファームで余生を送っている。
協力:TCK(東京シティ競馬)
映像:山口シネマ
実況:耳目社













中川明美(なかがわあけみ)
競馬ブック南関東担当記者。
新聞紙面にてコラム『南関こんしぇるじゅ』、週刊競馬ブックで『NANKAN通信』、競馬ブックWEBにて
『南関あらうんど』等を執筆。
週刊競馬ブック南関東S重賞本誌担当。
グリーンチャンネルにて『アタック地方競馬』『ダート競馬JAPAN』に出演中。