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第3回・高崎競馬場/三条競馬場編


矢野吉彦

2024.6.5 (水)

第2回の荒尾以来、久々に出かけた「あの競馬場のいま」を訪ねる旅。今回は群馬・高崎と新潟・三条を巡った。

Gメッセ群馬とBAOO高崎

高崎競馬場へは、上越新幹線が停まる高崎駅の東口から歩いて10分ほどで行けた。競馬場の入口は、何の変哲もない住宅街の路地裏にあった。競馬が行われていたのは2004(平成16)年末まで。競馬場ができたのは1924(大正13)年なので、もちろん長い年月をかけて周りを民家が取り囲んでいったのだが、その“埋没感”は半端なかった。

駅から競馬場跡を目指す。目標は『Gメッセ群馬』。競馬場の内馬場だったところに建設され、2020(令和2)年6月にオープンしたコンベンションセンターだ。そこに行き着く手前で、広場のような場所と半円形の遊歩道が見えてきた。これが旧競馬場の“西半分”。3~4コーナーの馬場だったところが、メッセ建設に伴い、そのままの形で遊歩道として整備された。

それは、3~4コーナーだけでなく正面と向正面の馬場跡にも伸びていて、メッセ東側の角張った部分とあわせて1周1350メートルのジョギングコースにもなっている。しかし、そこを歩いても馬場の跡であることを示す案内板のようなものは見当たらなかった。

弧を描く遊歩道を3コーナー入口まで歩いて引き返し、今度はホームストレッチ跡の道をゴールがあった方へ向かう。かつてここで騎乗していたジョッキーたちの眺めを想像しながら前方を見ると、メッセの脇に“場立ち予想屋サン”のブースが4つ、立ち並んでいた。夢かうつつか幻か、と思ったのもつかの間。その“正体”はメッセ駐車場の精算機を覆うテントだった。競馬場跡探訪の途中でなければ、そんな見間違いをするはずはないのだが・・・。

ゴール付近のコース跡を貫いてメッセ駐車場のアクセス道路があり、遊歩道にはそれを跨ぐ歩道橋が設けられていた。平坦だった馬場は、“バンケット”のあるジョギングコースに変身していた。

歩道橋の上からは北側にある『BAOO高崎』の施設が見下ろせる。場外発売所になる前は場内食堂などが入っていた建物。私も何度かそこで昼ご飯を食べた。かつてはその南側にスタンドがあったのだが、今はBAOOの駐車場などが広がっているだけ。BAOOの東側にあったパドックのあたりはメッセへのアクセス道路に生まれ変わり、競馬場の面影は全くなくなっていた。

メッセの中をちょっとだけ見学した。1000人収容のホールや大小さまざまな会議室を備えたいわゆる“ハコモノ”。当日はその一室でランドセルの展示販売会が行われていた。しかし、何組かの家族連れが見に来ていたものの、それ以外のスペースはガランとしていた。フロアの中を歩いて南側に回る。ガラス越しに南側の市街地が広がり、遠くには上城山(かみじょうやま)とその西側に連なる山々が眺められた。競馬場スタンドの特観席から見えた景色だ。建物は建て変えられていたり新築されたりしていても、山々の姿はほぼ当時のまま。でも、正確にそれを覚えていたわけではなく、こんな景色だったんだな、と思うしかなかった。

探訪の締めくくりにBAOOに立ち寄る。名古屋、金沢、盛岡の馬券が発売されていた。ただし、競馬新聞の売店はない。NARのアプリで成績を調べ、盛岡と金沢の馬券を1レースずつ買ったら、金沢のほうが当たり、ほんの少し儲かった。「競馬場跡を訪ねてくれてありがとう」。久しぶりに会った“友だち”からご褒美をもらったようで、金額の分だけほんの少しうれしくなった。

高崎の元騎手・赤見千尋さんの話

私が騎手を目指すようになったのは、たまたまテレビで見た競馬中継で、武豊騎手が1番人気の馬に乗って負けたことに衝撃を受けたから。競馬のことを何も知らなかったので、「あの武騎手が本命の馬で負けることがあるなら、私が乗っても勝てるレースがあるかも」と思って。

それで、実家のある群馬の藤岡から高崎の高校に通っていたんですけど、しょっちゅう高崎競馬場にレースを見に行きました。制服のままでね。まわりのおじさんたちが不思議そうな目で見てきましたが、怖いとか、怪しいとか、そういう雰囲気はなかったですね。思ったより身近で、スッと溶け込めました。

両親の知人から高崎競馬の畠中正孝調教師を紹介していただき、地方競馬教養センターを修了した後に所属になりました。でも最初の頃は、私の騎手になるという夢をあきらめさせようとしていたみたいです。「厳しい世界だから」とよく仰っていましたが、自分は社会を知らなかったので、(その厳しさは)そういうものなんだろうな、と思っていました。

デビュー戦は1998(平成10)年10月10日の第5レース。ゲートが開いた瞬間、先輩たちがあっという間に前にいて、ものすごく砂が飛んできて驚きました。砂に怯む馬の気持ちはよくわかります。デビューの開催で先生が勝てそうな馬(オークレインボー)を用意してくださって1番人気にもなったんですけど出遅れて3着。初勝利は33戦目(同年11月22日の第4レース、フェアウイング)でした。実はその直前のレースでもオークレインボーに乗せていただき、「今度こそ勝てる」と言われていたのに、また出遅れて負けていたんです。もう悔しくて鞍置き場のすみっこで号泣していたら、加藤和宏騎手(現調教師/金沢)にポンと肩を叩かれました。それで気を取り直して次のレースに乗ったら、余分な力が抜けたのか勝つことができました。今度はうれし涙。あの日は負けて泣いて勝って泣いた日でした。

私の勝負服のデザイン(桃・黒縦縞・黒袖)は、デビュー直前の群馬記念(同年5月5日)で見たフジノマッケンオーの馬主さんのもの(髙橋文枝氏、桃・黒縦縞・黒袖桃一本輪)に似せたんです。あこがれの武豊騎手が騎乗されていて、「これっきゃない」と思いました。

高崎はコーナーがキツかった。それと(ホームストレッチ以外は)外ラチがなくて壁に囲まれていました。中央から乗りに来たジョッキーが驚いていましたね。冬は寒くて風がとても強く、2コーナーの立ち上がりで飛ばされそうになることもありました。

コースもそうですが、パドックがファンの方々からすごく近かったので、ヤジはよく聞こえましたよ。私の場合、負けると思われていたことが多かったので、勝ったときに「余計なことしやがって~!」なんていうヤジを飛ばされたことがよくありました。

先輩のジョッキーはとにかくゲートが速かった。私がフツウに出ているのに、もう2馬身先に出ているくらい。中でも栃木からよく乗りに来られていた内田利雄騎手は、魔法を使っているのでは?!と思うくらいすごかったです。地元では水野貴史騎手、丸山侯彦(よしひこ)騎手、茂呂菊次郎騎手・・・。とにかくゲートが上手な先輩が多かったです。

騎手だった頃の一番の思い出・・・、なんだろう?やっぱり“最後の日”(2004年12月31日)かな。雪で第9レース以降が中止になって、結果的に私が勝った第8レースが“最後のレース”になっちゃいましたからね。

それと、レースの中で人馬一体になれた瞬間があったんですよ。シンボリルドルフのダービーで岡部幸雄さんが感じられたように、なんて言ったら言い過ぎですが。3コーナーのあたりでいつものように追い出そうとしたら、馬が「まだまだ」って。それで直線までガマンしていたら、「今だ!」って感じでグーンと伸びて勝ちました。オンワードクラフトという馬でしたね(1999~2002年に高崎で38戦11勝、そのうち赤見騎手で8勝、ほか足利で1戦0勝)。騎手として最高の瞬間でした。

同・加藤和宏調教師(現・金沢)の話

父が高崎競馬の調教師(四郎さん。元は騎手)だったので生まれたときから馬がそばにいました。先に4つ年上の兄(光司さん)が騎手になり、自分も自然と騎手になったという感じです。デビューは1970(昭和45)年。競馬場のまわりにはほとんど何もなく、高崎駅の東口からスタンドがよく見えました。

デビュー戦(1970年4月19日第1レース)をマリモジユニヤーという馬で勝ちました。兄がいい馬を回してくれたんです。でもその後、乗りクラに恵まれなかったこともあるのですが、思うように勝てませんでした。兄に負けたくないという気持ちが強く、焦っていたんだと思います。

5~6年経って、レースでは馬が頑張ってくれるんだ、自分が躍起になるほどうまくいかない、頑張ってくれている馬を上手に“誘導”してやればいいんだ、と思うようになりました。そういうことを馬が教えてくれたんです。

それで勝てるようになると、今度は周りのマークがキツくなりました。私はスタートがうまいほうじゃなかったので、先輩方から包まれたり前を塞がれたりするんです。ただ、危ないというところまで邪魔されたわけではなかったですよ。「コイツならここまでやっても大丈夫」と思ってくれていたんでしょうね。そんな時は、高崎は直線がわりと長かったので、あわてずに外に出していくようにしました。でも、スタートに失敗して負けた時はけっこうヤジられましたね。

いい馬に恵まれて、2000(平成12)年に引退するまで3,000回近く勝つことができました(16,012戦2,910勝)。それからすぐに調教師になったんですが、開業したばかりでいい馬が集まらず、なかなか勝てませんでした。そうこうしているうちに競馬場の廃止が決まって、もうイヤになっちゃった。他の競馬場が受け入れてくれると聞いても、手を挙げる気が起きませんでした。金沢に行く気持ちもすぐには起きなかったんです。でも、もうちょっと“馬のこと”をやりたい、という意欲が湧いてきて、後から手を挙げて、金沢に受け入れてもらいました。

金沢に知っている人はいなかったし、馬主さんの面識もなかったので大変でした。でも、おかげさまでリーディングが獲れるところまで来ました。もうしばらく頑張ろうと思います。

目標というものではありませんが、いい騎手を育てたいですね。若いうちはなかなか勝てないはずですが、あれこれ負けた言い訳を探すんじゃなくて、どう乗ればよかったか、我々や先輩に教わることです。いいジョッキーは自分とどこが違うのかを知ることも大事。ただ、教わったことや勉強したことをもとにして自分のいいところを上乗せしていかなきゃ、教えてくれた人を上回ることはできないと思いますよ。

赤見さんが初勝利のチャンスを逃して号泣していた時に私が肩を叩いたって?覚えていないなぁ。まぁ、負けてよく泣いていた記憶はありますけどね。でも、気が強くて負けず嫌いで、とにかく真っ直ぐな子でしたよ。若い騎手には、あの子のような“姿勢”が必要でしょうね。

高崎競馬場の思い出

本文にも書いたが、高崎競馬場の入場門は住宅街の何の変哲もない道に面してたたずんでいた。下駄履きで行ける路地裏の渋い店、といった趣き。競馬場の周りに住宅やアパートなどが建てられていくうちに、いつの間にかそうなってしまったのだろう。現存する浦和や園田、水沢よりもはるかに町中に溶け込んでいた。

赤見さんの話にもあるとおり、スタンド前の走路以外は壁に囲まれていた。おそらく元々は外ラチがあったはずだが、周りを道路や民家が取り囲むにつれ、ラチでは馬が外に飛び出すと危ないので壁にしたに違いない。

高崎で一番の思い出は、7~8頭立てのレースで、流し馬券の相手を1頭ケチったせいで万馬券を取り損なったこと。“馬券あるある”の1つとはいえ、1頭だけ買わなかった馬が来た、というのは、自分史の中ではその1回だけだと思う。20年前の廃止よりもっと前の話で、馬券をハズした以外のことは何も覚えていないのだが、たった一度の“痛恨事”なので忘れられないでいる(今後も夢に出てくるかもしれない)。

競馬が廃止になった後も場外発売の施設は残された。そこで行われた予想イベントに出演したことがある。2014(平成26)年の日本テレビ盃予想トークショーでは、赤見さん、キャプテン渡辺さんとご一緒した。当時、キャプテンさんはテレビ東京「ウイニング競馬」に出始めたばかり。予想が当たらないことで有名だった。そのキャプテンさんがこの日は見事な的中を披露。「よかったねぇ」とファンの握手攻めに遭ったり主催者の方から記念品をもらったりしてお祭り騒ぎになった。帰り道、キャプテンさんがウキウキしながら口にした「こんないい仕事はないですよね」という一言は今も覚えている。

在りし日の高崎競馬場。1989(平成元)年頃に撮影(同)

ミズベリング三条と三条乗馬クラブ

高崎から上越新幹線で燕三条へ。駅近くに宿を取り、『道の駅燕三条地場産センター』で自転車を借りて三条競馬場跡を探訪した。

競馬場があったのは、信濃川に五十嵐(いからし)川が合流する地点の対岸、瑞雲橋西詰の県道1号線と三条大橋北詰の国道17号線に囲まれた河川敷だった。

新潟の地方競馬は2002(平成14)年1月4日のJRA新潟競馬場での開催を最後に廃止。1928(昭和3)年に始まった三条競馬は、その前年、2001(平成13)年の8月16日に歴史の幕を閉じた。

その後は、スタンドが大井(南関東)競馬の場外発売所になったり、馬場の一部が2009(平成21)年の新潟国体馬術競技会場として使用されたりした。しかし、2004(平成16)年7月に五十嵐川の流域で集中豪雨による大水害が発生。これを機に河川改修の取り組みが進み、正面走路跡には信濃川の大堤防と『三条防災学習館』が建設された。

自転車で国道17号線を南下し三条大橋手前の坂を上ると、左側に大堤防と学習館の建物が見えた。それらが完成したのは2014(平成26)年。場外馬券発売所が翌2015(平成27)年3月で営業を取り止め、同年秋に旧スタンドが解体されるまでは、観客席の目の前に堤防が横たわる異様な光景が見られたそうだ。

三条大橋の脇には背の高い木々が立ち並んでいる。競馬場の3~4コーナーを取り囲んでいたもので、上越新幹線の車窓からも眺められる。競馬場があった頃はもっと“背が低かった”はずだが、紆余曲折を経て「馬場ノ木は残った」(わかる人にはわかる?)。

それらの木々が取り囲むあたり、旧競馬場の“右半分”はバーベキューが楽しめる施設になっていた。それが『ミズベリング三条』。県道1号線の瑞雲橋西詰に車の出入口があり、向正面の直線跡に設けられた舗装道路を通ってバーベキュー広場に出入りできる。3~4コーナー跡に残る砂利道から向正面の車道へ自転車を走らせた。競馬場は右回りだったから、これは“逆走”だ。

車道の南東側は信濃川、車道と川に挟まれた土地は畑。畑と車道の境目に、かつての外ラチがいくらか残っていた。そうそう、競馬場の内馬場も畑だった。内馬場が畑と言えば笠松競馬場を思い浮かべる方も多いだろうが、三条は畑の中に馬場があったようなものだ。昭和初期にできた地方競馬場は、だいたいそんな感じだったと思われる。

1~2コーナー跡を舗装した車道の外側に、三条乗馬クラブの厩舎が2棟建っている。かなり古びたその建物は、競馬場の厩舎として使われていたものだ。三条競馬の出走馬はすべて新潟競馬場に隣接した厩舎で繋養されていたので、それらは新潟から運んできた馬をレースの前後に繋いでおく施設だった。

クラブの代表の方にお話を伺うことができた。

「競馬廃止の後、ここにクラブを置き、馬場跡を国体馬術競技の地方予選会場として利用できるようにした」、「新潟国体で使われたのはその“流れ”から」、「厩舎の信濃川寄りに立つ木の脇が、800、1800、2800メートル戦のスタート地点跡(つまりコースは1周1000メートルだった)で、そこからちょっと走ると2コーナーのカーブ途中に合流する形になっていた」、「厩舎北側、県道1号線との間には検量所や騎手の待機所があった」。

「今はポニーなど10頭ほどを繋養していて乗馬にしているが、市の規模が小さく会員数も少ないため、クラブの経営は楽ではない」、「ただ、近隣で馬を飼う人がほとんどいなくなったため、馬を必要とする祭礼の主催者から管理馬を出張させてほしいという依頼が多く寄せられている」。いろいろなお話を伺えた。

競馬場の跡地に場外発売所が設けられているところはけっこうあるが、乗馬クラブなど、馬に関わる施設があるところは意外に少ない。三条は希有な存在だ。

厩舎を後にして県道1号線へ出る。かつて入場門があった方へ自転車を走らせると、すぐにバス停の待合室が見えた。停留所の標識には「競馬場前」と書かれている。それはまるで、そこに競馬場があったことを示す記念碑のようだった。

バス停を過ぎ、今は空き地になっているスタンド跡と大堤防との間に伸びる曲線の道を抜けて、三条大橋北詰に戻った。そこで今来た道を振り返った(そうしたのにはワケがあるが、それは後ほど)。そして、信濃川の向こうにそびえる山々を拝んで、跡地探訪を終えた。高崎と同じく、競馬が行われていた頃と変わらない山の景色。三条競馬場は、全国屈指の風光明媚な競馬場でもあった。ただ、そこで行われていたレースはノンビリ眺めていられるようなものではなかったのだが(それについても後ほど)。

元新潟所属・向山牧騎手(現・笠松)の話

ホントは野球選手か歌手になりたかったんですよ。当時、そう思っていた子供は多かったですからね。騎手になったのは叔父(勝さん)が調教師だったから。1983(昭和58)年4月(3日)に三条競馬でデビューして、何日目か(11日)に勝ちました。アタカールという馬でした。

三条はコーナーがキツいだけでなく、コースの幅も狭かったんです。広々とした新潟(中央競馬のコースを借りて開催。新潟地方競馬の厩舎と調教馬場はすべてその隣にあった)に比べたら“月とすっぽん”でした。

まず、スタートで出遅れたらダメ。馬場は荒れていたし、キックバックはキツいしで、ポジションが後ろになると勝つのは難しかった。1周1000メートルしかないので、3コーナーあたりからが勝負どころ。外を回したんじゃ、内をうまく先行した馬に勝てません。できるだけいい着順を取ろうとすると、どうしても狭いところを突いて乗らなきゃいけない。だから落馬事故も多かったんでしょうね。

三条は、先行力がある馬はもちろんですが、一瞬の脚を使って差し切れる馬が向いていました。新潟だとそれじゃ足りない。もっと長く脚を使える馬じゃないと勝てませんでした。水沢と盛岡でやっている今の岩手競馬みたいに、三条が得意、新潟が得意という馬がいましたね。

三条での思い出と言えば、大きいレースを取りたいと思っていたのが取れたことですかね。1995(平成7)年の新潟グランプリをダービーアールという馬で勝ったんです。その頃の新潟で一番の馬でした。それ以降、このレースを4年連続で勝ちました(96年三条=カルストンラナーク、97、98年新潟=ロバリーハート)。最初に勝ってから自信が付いたというか・・・。

新潟の地方競馬がなくなると決まったときには、寂しいとは思いましたが、自分らではどうにもならなかったのでね。私は馬に乗っていないとつまらない、という人間なので、笠松に来られてよかったと思っています。

まぁ、今だから言えることですが、三条は草競馬みたいなところでした。上山(山形)や今、私がいる笠松も草競馬っぽいですが、比べものにならないくらいでしたね。(付記・向山騎手はロバリーハートで1998年の交流重賞・群馬記念を制覇。このレースには武豊騎手が乗るフジノマッケンオーが出走していた。高崎の項に書いたとおり、赤見千尋さんはその武騎手の姿を見て勝負服のデザインを決めた)

新潟の元騎手・酒井忍調教師(現・川崎)の話

父(正男さん)が新潟地方競馬の厩務員だったので、小学生の頃にはもう厩舎の仕事を手伝っていました。1991(平成3)年に三条競馬でデビューしましたが、その前から新潟の調教馬場で乗っていて、特別な感覚はなかったですね。新年度第1回開催の初日(4月6日)から乗って、勝ったのは6日目(同14日)でした。

三条で乗るのはタイヘンでしたよ。2歳の馬は、最初はたいがい三条で走らせるんですが、新馬はほとんどが800メートル戦(2コーナーの“ポケット”からスタート)。先行しないと勝てないので、ゲートを出していくと小回りでコーナーを曲がりきれないことがけっこうありました。ラチにぶつかったり飛び越えちゃったり・・・。

一番多く行われていた1400メートル戦も油断できませんでした。1コーナーの先が厩舎や装鞍所になっていて、そこへ帰ろうとする馬がいたんです。そういう馬もラチを飛び越えちゃう。いろいろ気を遣いましたね。

あとは、内馬場の畑にビニールハウスがあって、それに太陽が反射して光ると馬が物見するとか・・・。レース中に馬場をヘビが横切っているのが見えたり、雨が降って水たまりになったところには亀がいたり・・・。とんでもない競馬場でしたよ。

とんでもない、と言えば、騎手が入る風呂もそうでした。フツウの家にある風呂しかなかったんです。そう、湯船には1人しか入れない。最終レースの後は大行列。他の競馬場から来た騎手がビックリしていました。

1996(平成8)年にトミノゴーランという馬で三条記念を勝ったのが一番の思い出ですかね。その後、この馬には向山さんが乗ることになるんですが、向山さんは激しく何かしているわけじゃない、派手さがないのにちゃんと成績を残す人でした。前寄りのクラで後ろが“パカパカ”な乗り方なのに、突っ張って馬を引っ張るようなところがない。フワーッと馬を包みこんじゃう。真似できるものじゃなかったですね。

私の場合は、先生(河内義昭調教師)が引退することになって、2000(平成12)年7月に川崎に移籍したので、新潟の地方競馬が廃止になる(2002年1月)までいたわけではありません。三条はとにかく先行有利。先行できなかった時はハラをくくってマクる。向正面で一気というのがハマることもありました。川崎に来てから大井の内回りで乗るときなどに、三条での経験を活かせたかもしれませんね。

三条競馬場の思い出

昭和の末、全国に地方・中央あわせて37カ所の競馬場があった頃、“全場制覇”を達成したのが三条だった。山口瞳さんの名著『草競馬流浪記』には、コーナーが角張っていて、馬場が楕円ではなく矩形に見える、これは危ない、という第一印象とともに、落馬事故が頻発していることが書かれていた。私が訪れた日に落馬事故はなかったと記憶しているが、スタンドから見えるのどかな風景と命懸けのレースとのギャップがはなはだしく感じられた。

当日は新年度2週目の開催で、冬休み明け2戦目の馬が多く出走していた。専門紙の印は前走の走りがよかった馬に集まっている。そこで私は、休養前のクラスと成績に注目、人気の盲点になっている馬を中心に馬券を買った。するとこの作戦がハマった。大穴とはいかないまでも、中穴馬券がおもしろいように当たった。高崎とは対照的に、三条では自分史上もっともウハウハの思い出を作ることができた(それ以来、そんな思い出を作れないでいるのだが)。

『草競馬流浪記』にも書かれているが、三条のスタンドはコースに対して斜めに建てられていた。しかもそれは、ゴール手前の4コーナー寄りにあり、ゴール前の“審判室塔”との間は橋で結ばれていた。その不思議な構造のワケを、向山騎手へのインタビューで初めて知った。コースとスタンドの間に弧を描くような形で一般道路が通っていて、その道を跨ぐ形でスタンドと“審判室塔”を結ぶ橋が架けられていたというのだ。

浦和競馬場にも馬場を貫いている道路があり、競馬開催日以外は通行できるようになっているが、三条もそうだったとは・・・。今回の旅の最後にそれを確認した。信濃川の大堤防沿い、かつてはスタンドがあった側にその道は残っていた。そこは競馬場の“立ち見席”だったところ。今、その部分に立っても、大堤防が目の前に立ちはだかり、馬場跡はもちろん、遠くの山々も望めなくなった。

掲載されている写真のうち、特に表記のないものは2024年5月筆者撮影。

矢野吉彦 

写真 矢野吉彦、いちかんぽ、NAR

矢野吉彦(やのよしひこ)

1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は270か所に及ぶ。