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宮下瞳騎手の黄綬褒章受章に寄せて


クローズアップ

2024.06.07 (金)

宮下瞳騎手の黄綬褒章受章に寄せて
 ~子供が応援してくれるから頑張れる~

鹿児島出身の少女は、祖父が馬を飼っていたことがきっかけで馬に親しみ、やがてジョッキーを志した。栃木の地方競馬教養センターで騎手になるための訓練を受け、1995年の秋に名古屋競馬でデビューを果たした。

「みんなに信頼されるような騎手になりたい、と思っていました」

それから30年近くの月日が流れて、47歳になった宮下騎手は、今もジョッキーを続けている。そしてこの春、女性騎手として初めて『黄綬褒章』を受章した。黄綬褒章とは、その道一筋に励み、他の模範となる人に贈られる褒章だ。

「ファンの皆様や関係者の皆様、家族の応援のおかげで受章できたと思っています」

宮下騎手は、謙虚に感謝の想いを伝えた。

ジョッキーとしてやり切った16年間

日本における女性騎手の最多勝記録は、益田競馬場で活躍した吉岡牧子元騎手が1995年に引退するまでに挙げた『350勝』だった。それから10年後の2005年、宮下騎手は吉岡元騎手の記録を塗り替えた。当時28歳だった宮下騎手に“騎手としての信念”を訊ねると、こんな答えが返って来た。

「ただ本当に『真面目にやろう』と思っています。たとえば朝の調教に、絶対出遅れないように。『朝も起きてこないで』と言われるのは嫌ですし、『女だから乗せてもらってる』と言われるのも嫌ですし(笑)。女性騎手はみんなと同じことをしていても目立ちますよね。だから『真面目に』が一番ですね」

2007年のレディスジョッキーズシリーズでは、浦和競馬場で行われた最終戦をクビ差で勝利し、女性騎手限定戦で初の総合優勝を果たした。「もう、これで辞めてもいいくらい嬉しいです!」と声を弾ませた。

「ずっと優勝できなくて、すごくプレッシャーを感じていたんですよ。『長く乗っているのに、なんで勝てないの?勝って当たり前じゃん』と思われてもしょうがないくらいだったから、優勝することができて本当に嬉しかったし、楽になりました。肩の上に『ズン』と乗っていたものが、なくなったから」

呪縛から解き放たれた第一人者は、海外でも魅せた。2009年8月、宮下騎手は韓国の釜山で開催された『KRA国際女性騎手招待競走』に出場した。

アメリカ、アイルランド、オーストラリア、南アフリカ、韓国、そして日本。世界6カ国より集いし11名の女性ジョッキー。日本代表は宮下騎手と荒尾の岩永千明騎手(当時)、高知の別府真衣騎手(当時)の3名だった。欧米の女性騎手は総じて体格がよく、タトゥーがガッツリ入っていたりした。対する日本の3人は華奢でおしとやかに見えて、筆者は密かにビビっていたのだが……。

宮下騎手&アイマファイアクラッカーが、しんがり追走から豪快な直線一気を決めた。ゴールの瞬間、宮下騎手の右手が高々と上がった。

「最高です、めっちゃ嬉しいです!4コーナーではあまり手応えがよくなかったので『厳しいかな』と思ったんですけど、直線で手前を変えたら伸びてくれました。国際レースで優勝できるなんて、まるで夢みたい。まだ実感がありません!」

宮下騎手にとって、「騎手人生初のガッツポーズ」だった。この異国でつかんだ金メダルがきっかけとなり、2009年10月から釜山での短期騎乗にチャレンジ。2010年には40勝を挙げ、釜山リーディングの5位に相当する成績をおさめた。パドックには「HITOMI LOVE YOU」と書かれた巨大な横断幕が掲げられ、「ヒトミ~、ファイティン(頑張って)!」という声援が飛んだ。“微笑天使”という素敵なニックネームを授けられるほど、宮下騎手は生き生きと競馬を楽しんでいた。

2011年5月、夫である小山信行騎手(当時)のお母様を看病するために帰国。「ジョッキーとしてやり切った」という想いと第一子の妊娠が重なり、引退を決意した。8月に名古屋競馬場で行われた引退セレモニーで、宮下騎手は言った。

「本当にいい16年間だったと思います。騎手として悔いはないです」

地方競馬通算626勝、韓国56勝という素晴らしい成績を残してステッキを置いた。

復帰、年間100勝、通算1000勝

2012年に長男の優心くん、2014年に次男の健心くんを出産。弥富トレーニングセンター内の自宅で家事や育児に励んでいた。そんなある日。

3歳になった優心くんが、部屋に飾っている“騎手・宮下瞳”の写真を指差して「これはだれ?」と訊ねた。「それはママだよ」と答えると、優心くんはこう言った。

「ママが馬に乗ってるところを見てみたい」

まっすぐな言葉が、眠っていた闘志に火を点けた。また馬に乗ってみたい。騎手として復帰したい――。すぐに夫に相談した。

「『危ない』『やめておけ』と反対されるかもしれないと思ったんですけど、あの人は『いいんじゃない?』と背中を押してくれました」

復帰するためには、あらためて騎手免許を取得しなくてはならない。乗馬クラブに通って障害飛越を練習したが、何度も落馬した。体力をつけるために走ったり泳いだり。学科試験の勉強にも手を抜けない。さらに、2015年11月からは厩務員として働き始めた。それに加えて家事、育児……。父が鹿児島から駆け付けてサポートしてくれたが、それでも当時の睡眠時間は2~3時間だったという。

「厩務員さんの大変さを身をもって経験して、厩務員さんへの感謝が倍増しました」

2016年8月17日、名古屋競馬場。39歳の宮下騎手は5年ぶりに復帰を果たした。“再デビュー”の当日、師匠である竹口勝利調教師は、「こんなに根性のある女の子は見たことない」と言ってにっこり微笑んだ。

「もう72歳だから『ぼちぼち引退しようかな』と思っとったけど、もうちょっと頑張る。瞳が帰ってきて、楽しみが増えたよ」

復帰からコンスタントに勝ち星を積み重ねた。牝馬ポルタディソーニとのコンビで重賞を4勝。2020年には日本の女性騎手として初めて『年間100勝』を挙げ、最終的には105勝まで勝ち星を伸ばした。2021年には地方競馬通算1000勝を達成。2024年6月5日現在、地方競馬通算1227勝を挙げている。

支えてくれる人のために、家族のために

「隣に住んでいるおばあちゃんが、いつも子供を見てくださっています。血縁関係はないんですけど、本当のおばあちゃんだと思っているぐらい可愛がってもらっているんです。たくさんの方々に助けていただいて、ここまで来ることができました」

夫の小山元騎手は、2017年から2022年まで釜山で攻馬手(調教専門厩務員)として活躍後に帰国、夫婦で力を合わせて育児をしている。また、2022年4月に名古屋競馬場が名古屋市から弥富市に移転。厩舎がある弥富トレーニングセンターと一体化したことで、レース開催日に移動する必要がなくなり、睡眠時間が増えたという。

「競馬場が移転して、レースが変わりました。馬場状態が毎回ガラッと変わるようになって、乗ってるほうもわからないぐらい。でも、難しいけど面白いですよ」

ファンも騎手仲間も絶賛するのが宮下騎手のスタート。後方でレースをしていた馬が、宮下騎手が騎乗するやスタートを決めて先行し、好走する光景を何度も見た。だが本人はものすごく謙虚だ。

「たまたま馬が出てくれるんだと思います(笑)」

同年代の女性から「元気をもらえます!」と声をかけられることも多い。

「そう言っていただくと嬉しいですし、『もっと頑張ろう』と思います。体力的には、意外と大丈夫ですね(笑)」

宮下騎手は疲れを見せずに、いつもきらきら輝いている。再デビューから8年。今、「騎手をしていてすごく楽しい」と言う。

「引退する前は、自分のためだけに頑張っていたように思います。復帰してからは、支えてくれている人のために、家族のために頑張っている気がします。子供が応援してくれるから頑張れるところもありますね。勝ったときに『おめでとう』と言ってくれたり、負けると『また頑張ればいいじゃん』と励ましてくれたり。すごく励みになっています。今後は調教師など色々な道があるので、これから考えていこうと思っていますが、せっかくもらった騎手免許なので、少しでも長く乗りたい気持ちもあります。『1日でも長く、子供にカッコいい姿を見せたいな』って」

井上オークス

写真いちかんぽ、NAR