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1年遅れで坂道を上り詰めたトーホウエンペラー


REWIND 00's

2024.09.25 (水)

トーホウエンペラーは1999年12月31日にデビューした。

1999年の岩手競馬は、フェブラリーステークスと帝王賞を優勝するなど、まさにメイセイオペラの絶頂期だったが、メイセイオペラは1年を締めくくるはずだった東京大賞典で1番人気の支持を受けながら11着の大敗を喫してしまう。その2日後の12月31日、桐花賞が行われる水沢競馬場でのことである。

その日の第1競走でトーホウエンペラーは静かにデビューを果たす。競走条件は4歳C3級(当時の年齢表記)で、1300mを1分25秒7で走って1着。3歳ではない、世代のトップを争う東北優駿も不来方賞もダービーグランプリも終わったあとの、4歳12月31日のデビューである。2週前に能力検査を合格して、岩手競馬のシーズン終盤にようやく間に合ったという状態だが、まさに我慢に我慢を重ねてここまで辿り着いたのだろう。この時期に最下級を走るような馬でないことは明らかだったが、のちに千葉四美調教師が語ったように「馬体は惚れ惚れするほどなのに、骨の成長が遅いのか、牧場で坂路が登り切れなかった」と、各所に弱点を抱えていた。ただ、当時日本の競馬の頂点を走るブライアンズタイムの産駒で、順調にデビューできるような状態であったなら岩手競馬にやってくる馬だっただろうか。偶然が重なって、様々な出会いが生まれたといえる。途中から担当を引き継いだ千葉拓美厩務員(現、三野宮通厩舎)は「腰が弱いとかいうことでこちらに来たんですけど、菊池武さん(元騎手、当時担当厩務員)が乗り込んでいくうちに『この馬走るよ』と言い出して、実戦を走らせたらやはりその通りになっていきました」

13戦11勝という成績で臨んだ重賞初挑戦は、この年が第1回となったトウケイニセイ記念でハイフレンドピュアの逃げを捕まえきれずに1馬身差の2着に終わったが、次走に1年を締めくくるファン投票のグランプリレース、桐花賞を選択する。実はトーホウエンペラーはこの時の出走はファン投票選出ではなく、報道推薦での出走だった。11月までA2級(当時の準オープンクラス)で走っていたトーホウエンペラーはファン投票用紙に記載がなく、票数が伸びなかったのだと記憶している。メイセイオペラが秋に引退し、ファン投票1位はバンチャンプ、ファン投票2位ランニングメイトが当日は1番人気の支持を受けたが、勝ったのはトーホウエンペラー。遅れに遅れた4歳12月31日のデビューから、ちょうど1年で岩手競馬の頂点まで駆け上がった。

2001年は赤松杯からほぼ思い通りのローテーションを組んだと思われるが、生まれつき持つ弱点は戦う舞台が高くなっていくにつれ、形となって現れはじめた。デビューが遅れた原因の一つでもあったが、腰の不安からかどうしても左回りでの動きは良くなかった。ダートグレードレース初挑戦はいきなりGIの帝王賞(5着)になったが、これも右回りを選択したから。広い盛岡コースには対応してマーキュリーカップ3着、マイルチャンピオンシップ南部杯2着。初グレードタイトルとなった新潟の朱鷺大賞典もまずまずだったが、続く小回りの浦和記念(2着)は終始ササって力を出せなかった。今もそうだが北日本、東日本には右回りのダートグレード競走が少ない。ハードルは高くなるが、東京大賞典への出走は早くからの目標だった。

千葉四美調教師はトーホウエンペラーに対し、まさにできるだけの手を尽くした。弱点を抱える馬だが、実戦で見せる能力が高すぎて、その反動も大きい。馬体へのケアももちろんだが、調教方法も同様に工夫された。併せ馬の相手が務まる馬もいなくなり、2頭、3頭と相手を増やして2ハロンずつ併せるような追い切りで負荷をかけていくこともあった。

「競馬場に話を付けて馬場を開けてもらうから、時計を採ってくれ」との伝言を受け、真っ暗の水沢競馬場へ向かう。前日まで競馬開催があり、本来厩舎は全休日となるのだが、29日の東京大賞典へ向けての追い切りを12月25日に行うという。ハロー車が馬場をならし、誰もいない静かな馬場に照明を入れ、そこへトーホウエンペラーを走らせた。「良い動きだな」と千葉四美調教師が言い残したとおり、4日後にトーホウエンペラーはGIホースとなった。

2002年は例年東京競馬場で行われているジャパンカップダートが、競馬場の改築工事のため右回りの中山競馬場で行われることになった。これはトーホウエンペラーにとってまさに千載一遇、願ってもないチャンス。この年は第2回JBC競走の盛岡開催も決まっており、どちらもが11月の開催だったが、陣営はジャパンカップダートへの出走(6着)を選択した。この年はフェブラリーステークス5着のあと名古屋、大井、旭川、水沢と右回りのレースを転戦したが、最後に左回りでもなんでも獲らなければいけないタイトルが地元に残っていた。盛岡のマイルチャンピオンシップ南部杯である。馬体重は496キロ、デビュー以来最低の数字にまで絞り込まれていた。

あまり早めに先頭に立ちたくないトーホウエンペラーだったが、この日は違った。前を行く1番人気のスターリングローズやノボトゥルーを内に見て、広い盛岡コースの3コーナーから積極的な仕掛けで、直線を迎えるあたりには一気に前へ並びかける。さらには後方を追いかけてきたのも岩手のバンケーティング。岩手の2頭がゴールへ向かってくると、盛岡競馬場は大歓声が止まらなくなった。表彰式で菅原勲騎手が万歳三唱、最終レースが終了するまで熱気は収まらなかった。

◆第15回マイルチャンピオンシップ南部杯 競走成績

 

提供:岩手県競馬組合

深田桂一

写真いちかんぽ

深田桂一(ふかだけいいち)

岩手ケイシュウNEWS 水沢競馬場担当記者。
IBCラジオ実況中継「いわて競馬X(クロス)」解説、
場内放送「勝ちそーファイナルチェック」解説。
ウェブハロン、うまレターなどに執筆。