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4回目の“旅”は広島・福山競馬場跡へ


矢野吉彦

2024.9.30 (月)

競馬場跡の記念碑

福山競馬場の最終開催日は2013(平成25)年3月24日。2024年8月末現在、これ以降に廃止された競馬場はない(新競馬場への移転に伴って閉場となった旧・名古屋競馬場を除く)。福山廃止の翌年から、低迷していた地方競馬の馬券売上はインターネット投票拡大の波に乗って前年比プラスに転じた。福山がもう少し持ちこたえていたら、経営状況を改善し、今なお開催を続けられていたかもしれない。裏を返せば、福山が廃止に至るまでの数年間が、地方競馬にとって最もつらい時期だったわけだ。

それはさておき、福山競馬場はJR福山駅から南へ約3㎞、芦田川の左岸にあった。3、4コーナーのすぐ外側は県道22号線。跡地の北東側交差点角には福山東警察署野上交番がある。福山駅南口の地下駐輪場で自転車を借りてその場所へ向かった。駅からの道も県道22号線だ。競馬が開催されていた頃、送迎バスで何度か往復している。広い道だが交通量は多くない。

県道は沖野上町4丁目(西)の交差点で右へ曲がり、芦田川に架かる水呑大橋へ至る。その橋の手前、左側一帯が競馬場跡。そこには子供向けの遊具などを備えた公園が広がり、奥のほうに新しい建物が建っていた。2019(令和元)年12月に竣工したエフピコアリーナふくやま(福山市総合体育館)だ。

その昔、競馬場のとなりには野球場があった。水呑大橋東詰の県道北側、今は五本松公園になっているところで、そこに福山市体育館が建てられた。これが老朽化したことと、競馬場が廃止されて新たな“敷地”ができたことが重なり、新体育館が建設された。

交番横の駐輪場に自転車を止めて跡地の探索を開始。交番裏に「福山市営競馬場記念之碑」という小さな石碑が慎ましくたたずんでいた。と、書いたものの、2023(令和5)年11月の最初の探索では、あろうことかそれを見落としてしまった。その後、GoogleMapで跡地周辺を確認していて碑があることに気づいた。そこで、翌24(令和6)年4月に社会人野球ネット配信の仕事で倉敷に行ったついでに2度目の探索に出かけ、写真を撮影した。実は、福山にはもう1度足を運ぶことになるのだが、その話は後ほど。

野上交番裏にある「福山市営競馬場記念之碑」

「記念之碑」にはこう刻まれている。「1949年(昭和24年)、福山市営競馬場は戦後復興を目的にこの地に開設され、多くの競馬ファンに親しまれました。しかしながら、レジャーや趣味の多様化、景気低迷の影響等から、多くの市民におしまれつつ、2012年度(平成24年度)に、63年の歴史に幕を下ろしました。福山市営競馬場は、戦後復興はもとより、小・中学校やスポーツ・文化施設の建設等を通じて、市民生活と市民福祉の向上に大きく寄与し、福山市民の夢や希望の礎となりました。ここに、福山市営競馬場の功績を記念し、碑を設置しました。2020年(令和2年)3月」。末期は赤字続きで競馬を厄介者扱いした市民も多かったはずだが、碑文からは地元密着の競馬場に対する愛情が感じられる。2001(平成13)年以降に廃止された地方競馬場の中で、記念碑を建ててもらったところはほとんどない。福山の「記念之碑」がこの場所に末永く残されるよう願っている。

競馬場跡の“空き地”

エフピコアリーナふくやまの南側には、競馬場の真ん中やや北寄りのあたりを東西に貫く道路が新設されていた。新道の南側は空き地。周りは金網で囲まれ、中に入ることはできない。かつてはその東側(写真⑥、⑦左側)にスタンドがそびえ、西側(同右側)に馬場が広がっていたのだが、それらの形跡は全く残っていなかった。

アリーナ南側から見た競馬場跡地

空き地の周囲を歩く。芦田川の土手に上がり競馬場跡地を眺めると、当然ながら左手にエフピコアリーナふくやまが見える。それが建つ場所と空き地をあわせると、なかなかの広さだ。福山は小回りでコーナーのカーブも極端にキツく、狭っ苦しい競馬場だった。しかし、跡地はけっこう広々しているように感じた。

グルッと回って、今度はスタンドがあった側に。そこから芦田川の方向を眺めた。その景色には見覚えがある。レースシーンの背景となっていた川の対岸の山並みだ。晴れた日には、山の向こうから差し込む西日がまぶしかった。競馬場がなくなっても、川の対岸の景色はほとんど変わっていない。

さて、ここまで“空き地”と書いてきたところは、いったい何なのか?GoogleMapを見ると「福山市みらい創造ゾーン多目的広場」との表記があり、スタンド側が“東”、コース側が“西”の2区画に分けられていることがわかる。

福山市のホームページには「2021年(令和3年)4月1日(木曜日)より、福山市営競馬場跡地みらい創造ゾーンに、周辺地域への浸水対策としての雨水貯留機能をもつ、福山市みらい創造ゾーン多目的広場(西広場・東広場)の供用が開始されました。さまざまなイベントやスポーツにご活用ください」と書かれていた。そこはただの“空き地”ではなかったのだ。

図書館に残る『60周年記念』のDVD

今回の記事執筆に際し、福山競馬の元騎手、鋤田誠二さん(現・金沢競馬調教師)、那俄性哲也さん(現・高知競馬調教師)に思い出話を伺った。お二方の経歴や競馬の歴史を調べていたら、福山市図書館が『歴史は名馬とともに~福山競馬開設60周年記念』というタイトルのDVDを所蔵していることを知った。「これを見ずに記事を仕上げることはできない」となったのは当然の成り行き。今年(2024)8月、甲子園の高校野球観戦に引っかけて、三たび福山を訪れた。先に「もう一度足を運んだ」と書いたのはこのことだ。

DVDは2009(平成21)年に製作されたもの。そこには数々の重賞競走の映像が収録されていた。真っ先に出てくるのは、福山史上最高の名馬と言われたローゼンホーマが優勝したレース。地元の重賞だけでなく、園田の楠賞全日本アラブ優駿や大井の全日本アラブ大賞典を制した時の映像もある。他にも、アサリユウセンプー、ミスターカミサマ、ザラストアラビアンなど、在りし日の福山競馬を知る方なら「あぁ、あの馬」と思われるに違いない“強者”たちのレースシーンや、アラブ専門だった福山にサラブレッドが導入された後の重賞競走が、これでもかというほど満載されていた。

福山市がこのDVDを製作したのは、競馬が廃止の危機に瀕していた頃。60年の歴史とそれを彩った名馬たちの記録をDVDにまとめ、市営競馬の広報と存続に繋げたかったのだろう。今やそれは、競馬場跡に建つ「記念之碑」とともに、福山に競馬があったことを後世に伝える貴重な“遺産”となった。

改めて競馬場跡の“空き地”へ

ここまで書いてきたように、福山競馬場の跡地はエフピコアリーナふくやまと福山市みらい創造ゾーン多目的広場に生まれ変わった。ひとまずそこは、市の施設として有効活用されているようだ。ただ、あわせて3度、跡地を探索したものの、多目的広場のほうに人がいて何かが行われている様子は見られなかった。福山市のホームページによれば、サッカーのゴールやソフトボールのバックネットなどを備えているそうだが、利用される機会は少ないのかもしれない。少なくとも、私が訪ねた日のその場所は、競馬が行われていた頃を想像できなくなるくらい、動きを止めて静まりかえっていた。

鋤田誠二調教師(金沢)の話

もともと私は騎手になるつもりはなかったんですよ。父(久さん)は福山の調教師で、弟は騎手を目指していましたが、体が大きくてあきらめ、別の仕事に就きました。私は小さくて、中学卒業の頃は身長が150cmちょっと、体重は41~2㎏くらいしかなかった。でも、騎手になる気はないから、競馬のこともよくわからず、中央と地方の違いも知らなかったんです。器械体操が得意だったので、将来は体育大の教員になろうかと思っていました。

ところが、厩舎育ちなものだから、周りは騎手になるのが当たり前と思っていたわけです。大分・中津で調騎会の会長をやっていた叔父(嵩さん)から「体操でメシが食えるか!」と言われて、「それもそうだな」と思って騎手試験を受けることにしました。その頃は福山競馬の景気もよかったので、後に兄弟子になる騎手がけっこう稼いでいたのも見ていましたからね。体操が得意だったくらいなので、身体能力は高くて体も柔らかく、試験はスンナリ合格しました。

デビューは昭和57(1982)年の5月。初めて競馬に出た日は、父がマロツトパールとフアストフラワーっていう馬を用意してくれて、どっちも人気になっていたんですが、勝てなかった。福山はコーナリングが難しかったですからね。仕掛けて逃げましたが、コーナーで外に振られて・・・。2戦ともサッパリでした。父が名ジョッキーだったので期待されていたみたいですが、「カエルの子はカエルとは言えんのう」なんて言われてしまいました。初勝利を挙げたのは、これも父の厩舎にいたオークライトという馬。乗り馬がなかった開催日もあったので、デビューから1カ月ほどかかりました。

若い頃に手本にしていたのは藤井勝也騎手です。時計で乗る、ゴールまでのタイムを逆算して乗る人でした。年間の開催日が60日くらいだった時代に1000勝(通算1444勝)した人です。南関東と同じくらいの開催日があったら、いくつ勝っていたでしょうね?

さっきも言ったとおり、福山はコーナーがきつくて怖かった。カーブで馬の後ろ脚がラチにぶつかるんですよ。そうそう、向正面の左手からスタートする800メートル戦がありましたが、2歳馬だと3、4コーナーが曲がりきれず、外側の壁に突っ込んでいっちゃう馬がたまにいましたね。そんな中で行き着いたのが、馬を気持ちよく走らせる、ということです。この馬はどうすれば気持ちよく走ってくれるかを考える。こっちがあんまり邪魔しないようにね。

デビューから3~4年経った頃に乗ったバビロンニセイとリキハイという馬にはいろいろ教えてもらいました。バビロンニセイとは大井の全日本アラブ大賞典にも遠征しましたが、どこから行っても勝たせてくれる馬。リキハイはテンが速くて逃げ方を教わりました。それこそ、どっちも乗っていれば勝つ。それで馬を気持ちよく走らせることが一番なんだな、って思ったわけです。

そういういい馬に巡り会って、勝てるようになった。あのローゼンホーマにも勝ったことがありますよ。テンマリユセイという馬でね。1988(昭和63)年の福山桜花賞でした。ローゼンホーマの那俄性騎手が騎乗停止中で別の騎手に乗り替わり、斤量が60㎏。こっちは51㎏。57㎏同士だったその前のレースで半馬身差の2着に負けていましたが、これはチャンスだと思いました。もちろん、テンマリユセイも強い馬でしたよ。

騎手を引退したあとは調教師になったんですが、それから3年ほどして福山競馬廃止の話が持ち上がりました。よそでも競馬がしたい、と思って他の調教師と話をしたり家族会議もしました。初めは、移籍先として金沢は頭になかったんですよ。遠いし、それまでに廃止になった競馬場から移っていた人が多かったし、冬場は開催がないでしょう?それでも、福山の主催者とか馬主会の会長さんとか、いろんな方々が仲介してくれて、金沢に移籍しました。今は受け入れてくれた金沢に感謝ですね。他の地区へ遠征に行けるような強い馬を手がけたいと思っています。

1986(昭和61)年1月5日、第21回福山大賞典。
鋤田誠二騎手はリキハイで同競走初制覇。
この年、初めてリーディングジョッキーの座に就いた。
(写真⑱の奥に県道22号線水呑大橋東詰の坂道)

那俄性(ながせ)哲也調教師(高知)の話

(那俄性さんと言えばローゼンホーマ。“日本一”になった1987年の全日本アラブ大賞典は私もナマで見ていました)

そうでしたか。実はその前の年、最初にそのレースに出た時も、道中で「勝った」と思った瞬間があったんです。で、初めてあの馬を追ったら、反抗して止まった。やめてしもうたんです。直線に向いたら手応えなし。大失敗でした(それでも2着)。

ローゼンホーマっていうのはけっこう難しい馬でね。ムチ一発で止まるんですわ。それで、腰で追うようにしました。ただ、ふだんは(福山の)小回りの馬場でしか走っていない。あの馬は2コーナーで自分から動いて行って3コーナーで射程圏。そういうレースで勝っていたんです。ところが、大井は大きいでしょう?だから2年目は前の年と同じ失敗をしないように心がけました。2コーナーで少し行きたがったけどガマン、最後の直線に向いてからでも間に合う、とね。そうしたらもう、残り200から100メートルのあたりで前の馬を交わして「よしっ、やった!」ですよ。会心のレースでした。勝ったあとは「やれやれ」と思いましたけどね。

(現)3歳の時に園田の楠賞(全日本アラブ優駿)を勝った時も、ちょっとしたウラ話がありましてね。あの馬、よう手前を変えんのです。福山で1周するだけのレースならそれでも勝てましたが、園田の2300メートル(馬場2周)では勝てん。そこで、1周目の4コーナーで馬を外に振って、頭を内側に向けさせた。そうやって手前を変えさせました。

ローゼンホーマはただ乗っていれば勝つ、っていう馬じゃなかったですよ。それは世話していた厩務員さんもよくわかっていたはずです。ふだんはものすごく怖い人だったんですが、ダービーを勝ったときは涙を流していた。あれは忘れられませんね。

私は、父(一人=かずひとさん)、叔父(裕=ゆたかさん)も騎手から調教師になっていて、厩舎で生まれ育ったんです。それで、幼稚園の頃には馬にまたがって円馬場に出て、小学生になると本馬場を走っていました。それだから、騎手学校は一番。騎手としてデビューした時も違和感はありませんでした。馬場は内側の砂が深いし、コーナーがキツいので内を回ると馬の後ろ脚がラチに当たるんですわ。だから内を1頭分、4~50cmから1メートルほど空けて回る。そんなことも知っていました。

ただ、私は体重が重たくて・・・。デビューした年、10勝するまでに3回も救急車に乗ったほどです。減量のせいでね。10勝目を挙げたときもそう。点滴打って、叔父さんに迎えに来てもらって・・・。開催の間隔が空くと、6~7㎏減らさにゃいかん時もあったほどです。だから、53㎏までの斤量の馬には乗らなかった。無理して減量して乗ってもいい結果にならんでしょ。だから2歳牝馬では勝ってないし乗っていないはずです。

私がスゴイと思った騎手ですか?そうですねぇ、番園一男(ばんぞのかずお)さんという人が兄弟子にいたんですが、この人は(馬の力が)10あるうちの5しか出さないレースがあったかと思うと、時には12出させて勝ってしまう、という騎手でしたね。それと藤井勝也さん。こちらは10あるうちの8、9、10は必ず出させる。無難というか、まぁ正統派のジョッキーだったですね。私はどっちのタイプでもなかったと思いますよ。

騎手を辞めて調教師になって、リーディングも獲りました。ところが、福山が廃止になるとわかって、どこへ移ろうかいろいろ考えました。ただ、冬の開催がないところに行く考えはなかったですね。園田だったら、とは思いましたが、2年間厩務員をやってからでないとダメだったので無理でした。騎手時代にヘルニアの手術をしていたのでね。で、高知は、細川(忠義)さんや別府(真司)さんと仲がよかったし、(知り合いも多い)福山とは車で行き来できるので、ここなら、と思って決めました。それに加えて、当時ナイターを始めていて、SPAT4で発売もしていたので、「これは馬券も売れるぞ」と見込んでいたんですよ。一時は高知も馬券が売れずに大変でしたが、今思えば、あの時の見立てはそんなに間違っていなかったかも。高知に来てよかったですね。

1987(昭和62)年12月10日、
第33回全日本アラブ大賞典(大井)を制し、
“日本一”となったローゼンホーマと那俄性哲也騎手

ローゼンホーマ全成績

福山競馬場の思い出

私が初めて福山競馬場を訪れたのは1985(昭和60)年12月。その約1年前、熊本・荒尾に初見参したのをきっかけとして(山口瞳さんの『草競馬流浪記』に触発されたこともあり)地方競馬場巡りにハマった。福山は、益田、高知、園田とあわせ、未知の競馬場を転戦する旅の途中だった。

前日の益田は“鳴かず飛ばず”に終わり、福山ではそれに輪をかけた“ドロ沼状態”に陥った。第1レースから全く馬券が当たらない(まぁよくあることなのだが)。その中で迎えたメインレース。財布の中も相当寂しくなっていた。「このまま1つも当たらないままじゃぁエンギが悪い」と思った私は、単勝オッズ1.1倍の大本命馬の単勝を100円だけ買った。レースは当時の3歳馬、今の2歳馬による年末総決算の重賞。大本命馬はデビュー以来負けなしの快進撃を続けていた。それに乗って、とにもかくにも当てに行ったのだ。

するとそのレースで、大本命馬は大苦戦を強いられてしまう。同馬ともう1頭の馬が鼻面をあわせてゴール。決着は写真判定に持ち込まれた。ところが、その結果がなかなか出ない。「ずっと馬券をハズしっぱなしだった私が“当てに行く”馬券を買ったせいで、大本命馬のデビュー以来の連勝を止めてしまったか?この100円の馬券もハズレてしまうのか?」。それまで経験したことのないような、どんよりした思いに包まれた。

長い長い写真判定の結果、電光掲示板の1着のところに、大本命馬の番号が灯った。直後に発表された単勝の払戻金額は110円。馬券は当たった。しかし、うれしくも何ともなかった。その大本命馬がローゼンホーマ。レースはヤングチャンピオン。当たった馬券は払い戻さず、勝利のお守りとしたのだが、いつしか行方不明になった。

ローゼンホーマは、翌1986(昭和61)年に楠賞全日本アラブ優駿(園田)を制し、同年暮れの全日本アラブ大賞典(大井)に駒を進める。しかしそこでは、ノムラダイオー(船橋)の2着に敗退。それでも、続く1987(昭和62)年の同レースに再挑戦すると、北海道のイソナンブや前年に後塵を拝したノムラダイオーらを破ってアラブ日本一の座に就いた。「あの時のあの馬がここまでになった」。レースを観戦していた私は、ここでようやくうれしくなった。

福山初観戦で強烈な思い出を作った私は、それに懲りず何度か同競馬場を訪れた。スタンド裏にあったパドックのすぐ外側に道路があって、なんとなく荒尾に似ているように感じた。だいぶ前の話だが、自動給茶機の脇に、お茶に混ぜるための塩があった。それを見て、高校生の時になくなった明治生まれの祖父が、緑茶に塩を少々加えて飲んでいたことを思い出した。ポカリスエットやアクエリアスなんてない時代に、そうやって水分と塩分を補っていたのかもしれない。福山は工場で働く人たちの町。そんな場所柄もあったのだろう。

帯広単独開催になったばんえい競馬が知名度を高めようと福山でイベントを開催した際、デモンストレーション走行の実況や場立ち予想の解説を務めたことがある。その時、場内でのPRだけでは一般の人たちにPRすることができないので、福山駅近くのショッピングセンターでトークショーも行った。「競馬場では現役ばん馬の体験乗馬もできます。みなさんぜひ競馬場へ」という言葉でそれを締めくくると、一人のご婦人から声をかけられた。「ご苦労さま。実は私の夫は福山競馬の騎手なんです。でも、今はその稼ぎだけでは足りないので、私はこのショッピングセンターでパート勤務をしています」とのこと。赤字続きで賞金や手当が削減されていた競馬場は、そんな“内助の功”にも支えられて存続している。当時の地方競馬が直面していた現実を改めて痛感させられた瞬間だった。

イベントの後、福山とばんえいの関係者を交えて、ささやかな打ち上げの会が催された。その会場となった小料理屋の店名も、そこで供された東京ではまずお目にかかれない瀬戸内の魚の名前も忘れてしまった。一緒にその宴席を囲んだばんえい競馬広報担当の方は、全国各地を東奔西走してばんえいの売上向上に尽力されていたが、しばらくして鬼籍に入られた。相前後して福山競馬も廃止。同競馬場の思い出には、ローゼンホーマのヤングチャンピオンのことだけでなく、さまざまな“切なさ”が込められている。

在りし日の福山競馬場スタンド

写真①~⑰は筆者撮影。写真⑱~㉗は地方競馬全国協会所蔵。

矢野吉彦 

写真 矢野吉彦、NAR

矢野吉彦(やのよしひこ)

1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は275カ所に及ぶ(2024年9月末現在)。