「あっ、お久しぶりです」。10月の終わりに名古屋競馬場でまったくもって偶然の出会いがあった。年齢から数年前に勇退していた元厩務員の吉田さん。原口次夫厩舎所属の名古屋競馬にこの人ありと言える腕利きの厩務員さんでキングスゾーンを担当していた。必然的に思い出話に花が咲く。真っ先に出てくるのがまだオープンに上がる前の条件戦、2006年8月11日に行われたA4の1400mのレース。中央の未勝利から転入してきてこの時点で名古屋と笠松で中央在籍時の交流競走も含めて(9511)で3連勝中での参戦。1番人気に推されていたのは中央500万下から転入してきて名古屋、笠松では(10000)のムーンバレイ。こんな2頭がいてはと回避馬が続出したのだろう。わずか6頭立てのレースに。しかし回避馬の続出が納得できるすさまじいレースになった。まさにノーガードでの打ち合い。逃げるキングスゾーンにマークしていくムーンバレイ。他の馬は眼中になく、壮絶な一騎討ちに。「何があっても引かずに行ってくれと丸野には頼んだんだ」と吉田さん。馬連が100円元返しという見たことのない配当になった結果は1着ムーンバレイ、5馬身差の2着にキングスゾーン。3着以下には2秒3もの大差をつけていた。勝ち時計が1分25秒2。同じ年の中央交流重賞のかきつばた記念の勝ち時計が1分27秒2だったことから何もかもが規格外のレースだった。敗れはしたものの吉田さんは「あのレースで確信したよ。絶対に走る馬だと」。日頃、調教に乗る機会が多かった原口次夫調教師ももちろん同じ思い。騎手時代にはゴールドレットなど数々の一流馬の背中を知っている人だけに説得力があった。
ノーガードのマッチアップからおよそ1ケ月半後、金沢で行われた交流重賞のオータムスプリントカップが特別なレースになった。まだA4を勝ったばかりで選出されたのがラッキーだったし、キングスゾーンにとっては初の遠征競馬であり初の重賞挑戦。アタマ差ではあったがここを勝ったことにより、この先の他地区への重賞チャレンジの切符を得ることができたと言っていいだろう。さらに出会いもあった。「新たな面を引き出してくれないか」という原口次夫調教師の思いから多くの騎手が騎乗することになっていくのだが、ひとり主戦を選ぶとするならばのちに佐賀で中央交流重賞のサマーチャンピオン(JpnⅢ・1400m)を制す安部幸夫になるのだろう。金沢からの帰路、サービスエリアで笠松の馬で参戦していた安部幸夫とキングスゾーンのオーナーが出会う。会話の中で関係性が生まれてのちの騎乗へとつながっていった。
この金沢での勝利を契機に精力的に交流重賞を目指して遠征競馬を繰り返していく。あと一歩のレースはいくつもあった。2着が浦和記念、さきたま杯にスパーキングサマーカップ、3着が佐賀記念に黒船賞。遠征競馬で好走していることから輸送が問題なかったように思われてしまうかもしれないが、実際のところは車中ではかなりうるさいところを見せていたと聞いている。厩舎でも簡単には近づけないような気性だった。だから吉田さんはこの点に関しても気をつかっていた。輸送中のトイレ休憩の時でも運転手さんに「なるべくトイレに近いところに止めてとお願いしていたよ。少しでも車中にいる時間を短くしてあげたかったから」と。
ムーンバレイとのマッチアップからおよそ1年後に迎えたのが2007年8月14日、佐賀で行われたサマーチャンピオン(JpnⅢ・1400m)。激しい気性な点は先にも触れたが気分屋という側面もある。気持ちが乗っていないときは返し馬でも乗り役がムチを入れるケースがある。乗り役が抑制するのに苦労するぐらいの気合いを出しているかがひとつのポイント。この日はやる気が十分に伝わってきた。ディバインシルバーの逃げだから早々の後退は目に見えていて、番手から早目先頭で1頭になると遊ぶ面を出してしまうのが懸念されたが、オフィサーが馬体を併せてくると持ち前の並んだら抜かせない闘争心が点火。差し返す形での歓喜、感動のゴールだった。
表彰式は厩務員が簡単に出席できるわけではない。地元なら同厩舎のスタッフの助けもあるだろうが、遠征競馬となるとそういうわけにもいきづらい。吉田さんも最初は「馬の世話があるからいいよ」とシャイな面を見せつつ断っていた。しかし…。このレースにはムーンバレイも参戦していて0秒2差の3着に奮闘。この角田輝也厩舎のスタッフが「吉田さん、表彰式に行ってくださいよ。ボクが馬を曳いていきますから」と口取り写真を終えたキングスゾーンの引き綱を取りにきてくれた。
提供:佐賀県競馬組合
森徹也(もりてつや)
中日スポーツ 笠松競馬担当。
ネットケイバうまい馬券で名古屋、笠松競馬の予想。
元専門紙競馬エース記者。