2度目の海外は教養センターから
連覇を目指した2024年JBCスプリントJpnI・4着の翌週、オーナーの野田善己氏はイグナイターの現役続行を発表した。視野に入れられていた種牡馬入りは先送りされ、2025年初戦はサウジアラビアに渡ることとなった。
これまでもサウジアラビアのリヤドダートスプリントG2に登録はしていた。昨年も招待が届いたが、検疫の課題等から辞退。その後、ドバイゴールデンシャヒーンG1にはJRA栗東トレセンの検疫施設を間借りして遠征し、5着に入った。
今年のサウジ遠征では同施設を借りられなかったが、昨年、ドバイからの着地検疫で地方競馬教養センターを利用したことから新子雅司調教師は「ここでどういうことができるか、イメージが沸きやすかったですし、ドバイでの様子を見てイグナイターならできるだろうと感じました」と、同地で出国検疫を受けることを決めた。1頭だけで8日間を過ごすことになるが「人間が好きな馬なので、人がいれば大丈夫」と新子調教師。かくして、同センター初となる出国検疫は、普段から調教に跨る新子調教師が調教騎乗から手入れ、エサやりまですべてを1人で担う形でスタートすることとなった。
地方競馬教養センターに入ったのは雪がちらつく2月6日。暖冬かと思われた今年だが、この頃から急激に冷え込みが厳しくなり、全長755メートルの坂路では日陰に雪が残ったまま。そのため、当初はこの坂路を活用するプランもあったが、1周1100メートルの周回コースと角馬場にて調整することとなった。普段、調教している園田競馬場に比べて1周距離が約50メートル延びるのみで、調教施設として不足はなかった。そわそわしたり、カイ食いが落ちることはなく、12日に国内最終追い切りを迎えた。調教スタンドからは騎手候補生が熱い眼差しを送り、野田オーナーも駆け付ける中での追い切りは、これまでと変わらぬ迫力ある動き。午後、園田から武田裕次厩務員が同センター入りすると、バトンタッチした新子調教師はひと足早く成田空港からサウジに飛び立ち、現地でイグナイターを迎え入れる準備を進めた。
気になった馬場状態の変化
人も馬も初めて降り立った砂漠の国は涼しかった。砂漠気候のため朝夕は例年通り薄手のダウンが必要な寒さだったが、昼間になっても雨の影響で気温は上がりきらなかった。イグナイター自身は2回目の飛行機にも慣れて大きな馬体減りはなく、さらには現地で同じ厩舎に入ったチカッパ(JRA)がそわそわしていたため、調教の行き帰りなどでリードする頼もしさを見せた。
到着から4日後の18日、レースが行われるキングアブドゥルアジーズ競馬場で最終追い切りが行われた。直線500メートルと広大なコース。
「行く気がすごくて、残り1200メートルから徐々にペースアップして、最後は踏ん張らせる形。よく辛抱して走れていました。広すぎて、馬もドバイと同じ感覚で走っていたら『まだあるのか』と思ったんじゃないかな。人馬共に感覚がいつもと違いました」
騎乗した新子調教師はそう話した。
午後、コンピューター抽選の結果、6番ゲートからのスタートが決まり、2日後(20日)の午前中になると笹川翼騎手や武田厩務員らもサウジに到着。馬主、調教師、騎手はその夜、競馬場にて開催された『星空の下での夕食会』に出席し、アラビアンな雰囲気を味わった。
翌朝、笹川騎手は調教直後の馬場に足を踏み入れた。同行したスタッフが足跡をさらに掘って測ると、深さは11センチ。
「最初のインパクトはふわっとしていますが、蹴った時にぎゅっと固まりそうです」
樹皮交じりで、砂というより土に近い馬場について感触をそう話していると、馬場のローラー掛けが始まり、固められていった。例年だとレース当日は散水もあり、ここからさらに馬場状態は変化するという。笹川騎手も新子調教師も「水分量次第で、大きく変わりそうな馬場」と口を揃えた。
実力発揮できず11着
迎えたレース当日、やはり馬場状態は変化していた。第1レースを前に馬場を歩くと、「昨日よりも水分を含んで軽くなっていて、スピードが出すぎる」と笹川騎手は感じた。また、前日にインターナショナルジョッキーズチャレンジでダート2鞍に騎乗した永島まなみ騎手(JRA)は「馬を抱える感じで乗った方がいいのかなと感じました」と、日本のダートとの違いを話していた。
だからこそ、抜群のスタートを決めたかった。近走はゲートを含め「いい意味で落ち着きすぎている」(笹川騎手)こともあったが、追い切り翌日からは元気が良すぎるためメイントラックには出さずに調整を続け、返し馬も前向きさを見せて駆け出していった。
しかし、レースの1分前、予期せぬことが起きた。ゲートボーイの希望は出していなかったにもかかわらず、ゲート内に入ってきた。
「ゲートボーイがハミを持った時に馬が嫌がって、そこからバランスをどうにかするのが難しくて」と笹川騎手。
飛び上がるようなスタートとなり、得意とする好位から押し切る形に持ち込めなくなってしまった。それでも先頭から大きく離されることなく追走したが、前が止まらない馬場。前年のブリーダーズカップスプリントG1覇者・ストレートノーチェイサーが直線で後続を離して逃げ切り勝ちを決め、イグナイターは12頭立て11着でのゴールとなった。
スタートも馬場状態も噛み合わず、全力を発揮しきれぬレースとなってしまった。しかし、新子調教師は「これが競馬。馬場をどうこう言っても始まりません」とキッパリ。そう思えるだけの納得の仕上げで送り出せていたのだろう。
一方、笹川騎手は引き上げてくると何度もイグナイターの首筋を撫で、労った。
「急に頭の中で、この場に連れてきてくれたイグナイターをはじめオーナーや調教師など関係者に『本当にありがとう』という思いが込み上げてきて、ウルッときました。結果は出なかったですけど、こうやって行くことは大事だと改めて思いました」
武田厩務員もこう口にした。
「昨春のドバイのように暴走寸前みたいなテンションにはなりませんでしたし、無事に帰ってきてくれたので、それでいいです」
ただ、改めてレース内容を振り返ると、反省点と今後に向けた課題が見つかった。
「このクラスだとペースがめちゃくちゃ速くて、馬は上手くリカバリーしてくれたんですけど、最後は一杯いっぱいになってしまいました」と笹川騎手が話せば、新子調教師も「1200メートルのJBCで逃げ切り勝ちするような馬じゃないと、世界では通用しないと感じました。1400メートルでも走る馬じゃなくて、この距離に特化しないと」と、スペシャリストが必要だと痛感。
世界の壁を超えるには
「今までは見えもしない壁を追いかけていたけど、その壁が今回で見えたような気がします。その点で収穫がありました。地方競馬の中で“お山の大将”でも、JRA馬相手に勝てないのと同じで、外に出て強い相手と戦いながらその距離に特化しないと壁は超えられないと思いました。次にイグナイターのような馬が出てきたら、サウジからドバイへの転戦も視野に入れれば、結果も変わってくると思います」(新子調教師)
昨春のドバイ遠征の時点では、帰国後の疲労などを考えてサウジからの転戦は選択肢に入れられなかった。しかし、敗戦を経験したいま、明確な理由を元に選択肢に入れられようとしている。それこそが、挑戦する意義なのだろう。
3時間半後、世界最高賞金を誇るサウジカップG1をフォーエバーヤング(JRA)が勝った。日本馬の快挙を目の当たりにした新子調教師は興奮した表情でこう話した。
「地方馬がいつか勝っても不思議ないね。フォーエバーヤングもロマンチックウォリアー(2着)もすごく強いけど、前者は大井競馬場でジャパンダートクラシックや東京大賞典を勝った馬なんだから」
フォーエバーヤングを管理する矢作芳人調教師は「大井から世界へ」との言葉も残している。地方から世界を目指す道は、少しずつ整備されている。地方馬なら誰もが利用できる地方競馬教養センターでの出国検疫や、国際競走出走奨励金がそうだ。イグナイターの海外遠征は「これが最後になると思う」と野田オーナーは話すが、彼が切り開きつつも届かなかった夢に、多くの地方馬が挑戦する未来が訪れることを願う。