近年廃止された地方競馬場の跡を訪ねる旅。第5回は県内に2カ所の競馬場を擁した栃木県へ。
宇都宮跡地の総合運動公園
栃木県内にあった地方競馬場のうち、最後まで残っていた宇都宮競馬場は2005(平成17)年3月に廃止された。跡地は栃木県総合運動公園に生まれ変わり、中心施設の「カンセキスタジアムとちぎ」はサッカーJ3・栃木SCの本拠地となっている。
最寄駅は東武鉄道宇都宮線の西川田駅。
競馬場があった頃は何度か利用していたが、“最後の日”に来て以来、約20年ぶりに降り立った。改札口を出て地下道をとおり、それがあるほうへ向かうのは昔と同じ。そこへ向かう道もだいたい覚えている。宇都宮は駅からゆっくり歩いても10分足らずの“駅近競馬場”だった。
住宅街の狭くて曲がり角の多い道を抜けると、見覚えのある風景が見えてきた。かつての来場者用駐車場とその先の小さな林だ。
林の手前、駐車場の端にはポツンと家が建っている。競馬が行われていた頃、その家には馬がいた(建物は建て替えられているが)。
宇都宮には厩舎エリアがなかった。正確に言えばいくつかの厩舎は競馬場の敷地内にあったのだが、ほとんどの厩舎は周辺に点在していて、そこで管理されていた競走馬は調教やレースの際、一般道路を歩いて厩舎と競馬場との間を行き来した。そのため、時に交通事故が発生。カネユタカオーという実力馬が調教帰りに居眠り運転のトラックと衝突して死亡する悲劇に見舞われたこともある。
駐車場はほとんど当時のまま。今は金網に囲まれ、中に入ることはできない。一角に「第4駐車場宇都宮競馬場」と書かれた看板が立っていた。
それだけを見ると、今も競馬が行われているのではないかと思ってしまうほど、“生々しい”痕跡だった。その先、道路の向かい側にある小さな林も昔と変わらず、木々がうっそうと生い茂っている。ありふれた表現だが、そこだけ時間が止まっているようだった。
さらに進むと、正面に真新しいスタジアムが姿を現わした。競馬場跡地の運動公園に建設された「カンセキスタジアムとちぎ」だ。
公園入口とスタジアムの間、今はアクセス道路や駐車場になっているあたりが、昔のスタンドやファンエリアがあったところ。入口の左手、スタジアムの北側は競馬場があった頃はもちろん平坦だったが、公園造成の際に盛り土が行われ、小高い“丘”ができていた。
競馬場は右回りだったので、さっそく“丘”に上がって1コーナー方向へ。するとそこに、競馬場跡探索の“目玉”とも言える弧を描く道が伸びていた。
道の外側は昔からあった住宅地。真新しいセンターラインが引かれた舗装道路と“丘”の斜面になっている部分が、おそらくかつての馬場だったところだろう。
その道をたどっていくと、右カーブはやがて直線に変わる。
向正面に出たわけだ。左手は、これも競馬場があった頃からそのままになっている林。一方、右手に迫ってくるスタンドは2万5000人収容とのことで、なかなかの壮観だ。栃木SCはJ3のチームだが、もしJ1に昇格して浦和レッズやアルビレックス新潟などの人気チームを迎えたら、あの小さな西川田駅はどうなってしまうのか、ちょっと心配になった。
それはさておき、スタジアムに沿って伸びる直線道路は再び右カーブを描き始めた。かつての3コーナー跡だ。
今度は左手に遊園地が見えてきた。「とちのきファミリーランド」という施設で、まだ競馬が行われていた1979(昭和54)年の開園。アトラクションはリニューアルされているはずだが、観覧車は当時からランドマーク的な存在だった。
道はスタジアムの南側を、先に歩いた“丘”の外周と同じような曲がり具合で取り囲み、スタンド正面側の直線部分に至る。
そこがホームストレッチ跡。ただその“道”は、先に書いた“丘”があるために途切れてしまう。
なので、コース跡はかつての馬場1周分まるごと残されているわけではない。しかし、スタンド前にある総合運動公園の案内板を見ると、そこが競馬場の跡地を利用して造成されたことがわかる。
宇都宮のコースは1周1200メートル、4コーナー出口からゴールまでは200メートルしかなかった。しかし、その内馬場だったところに2万5000人収容の壮大な多目的スタジアムがすっぽり収まっている。それに加えて、スタジアム北側の“丘”の上には陸上競技投てき種目用の練習場もある。
小回りコースの内側部分にこれだけの施設を造れるのだから、競馬場は広い。宇都宮の跡地は見事なまでに運動公園に転用されたが、全国各地の廃競馬場跡地に今なお持て余されているところがあるのは、やむを得ないことかもしれない。
そんなことを考えながら、次の目的地の足利競馬場跡へ向かうため、西川田駅に向かった。運動公園前で北から西へほぼ直角に曲がる道は、今でも競馬場通りと呼ばれているとのこと。その通りや西川田駅東側の街路沿いに立ち並ぶ電柱を見上げると、「競馬」と書かれたプレートがいくつも取り付けられていた。
電線や電話線には、鉄道の路線や道路と同じように名前が付けられている。「競馬」というプレートはかつてその付近にそれがあったことを物語るもの。過去に青森や目黒、小田原、松江などで見つけたことがあり、競馬場跡巡りの時に探すようにしているが、宇都宮にもそれがあった。「第4駐車場」の看板はいつ撤去されてもおかしくないが、電柱のプレートはこの先しばらく、競馬場の“記念碑”として残されていくはずだ。
足利跡地の日赤病院とオープンセット
西川田駅から東武線とJR両毛線を乗り継いで足利へ。宇都宮廃止の2年前、2003(平成15)年3月に最後の開催を終えた競馬場の跡は、「足利赤十字病院」などに転用された。その場所へは「あしバスアッシー」というコミュニティバスが運んでくれる。市の中心部、地方によくある人通りの少ない商店街のバス停から乗車すると、約10分ほどで病院の玄関前に到着した。
競馬を見に行く時は、東武伊勢崎線の足利市駅から向かうことが多かった。両毛線の足利駅は渡良瀬川の北側、足利市駅は川の南側にある。競馬場は市街の西、川の北側の河川敷にあったので、足利市駅からタクシーに乗ると橋を渡った後に土手上の道を進み、そこから左折して土手下に待ち受ける競馬場東側の入場門に至っていた。その経路と今のバスのルートは違う。今回はバスに乗ったまま、スタンド跡とホームストレッチ跡を突っ切って内馬場だったところに着いたわけだ。
宇都宮の時と同じように、まずは右回りだったコースの1コーナーを目指す。と言っても、コース跡は残っていない。左手にある薬局と右手にある駐車場の間を進むと、知る人ぞ知る施設に突き当たった。「足利スクランブルシティスタジオ」だ。渋谷のスクランブル交差点を再現したオープンセットで、中を覗くと、渋谷を訪れた人なら誰もが目にしているはずの“地下街出入口”が見えた。
こちらは厩舎エリアの跡。宇都宮と同じく、足利も競馬場跡地が運動公園に転用され、「足利ガスふれあい公園(五十部=よべ運動公園)」となった。厩舎エリア跡の“空き地”はその一部の「芝生広場」とのこと。南側にはソーラーパネルが設置されているが、宇都宮の運動公園が立派だっただけに、足利の「芝生広場」は“持て余され感”が半端ではなかった。県と市とでは、事業主体としての“力量”に差があるのかもしれない。
赤十字病院とその南側の渡良瀬川堤防に挟まれた細長い土地も運動公園の一部。子供の遊具などが置かれている。
敷地の幅は競馬場のコースをいくらか広げたくらい。つまりそこが向正面のコース跡だ。赤十字病院の建物を右手に見ながら先へ進むと、病院西側、かつての3、4コーナーだったあたりに出る。そのあたりは盛り土が施され、ヘリポートや子供が遊べる小さな築山になっていた。
それがかつての4コーナー跡かどうかは、今と昔の地図や航空写真を見比べてもよくわからない。足利の3~4コーナーはスパイラルカーブで、はじめは緩やかだが、ホームストレッチが近づくにつれて次第にきつくなる曲がり方になっていた(船橋競馬場などと同じ構造)。ところが、駐車場の端の弧はわりと緩やかで、4コーナーの形状とはちょっと違うような気がした。今回、足利競馬場の跡地を歩いてみて、コース跡っぽいと思ったのはそこだけ。ほかに足利競馬場の存在を今に伝えるものは、電柱のプレートを含め、一切残されていなかった。
ただ、競馬場のスタンドから眺められた渡良瀬川の土手と対岸の景色や、スタンド背後に見えた山の姿に大きな変化はなかった。そしてもう1つ、バスルートになっている道路が両毛線と立体交差する跨線橋のたもとに立つ「大手神社」の案内看板は、競馬場のスタンドから見た覚えがある。
手塚佳彦さん(元騎手・調教師)の話
私が騎手免許を取ったのは昭和26(1951)年6月。初めてレースに出たのは翌7月でした。
実家は同じ栃木でも益子の農家で、田んぼや畑を耕すために馬を飼っていました。私は長男で、小さい頃から馬の世話を任されたんです。小学校に入ると、田んぼの“しろかき”をするときに馬の手綱を取るようになりました。その後、馬に跨がるようにもなって。
戦時中、おじさん(母の弟)が宇都宮の騎兵連隊にいたんですが、戦争が終わって馬を1頭連れて帰ってきました。払い下げみたいなものです。おじさんは「馬はいらない」って言うんでウチで引き取って、その馬で七井村(栃木県芳賀郡にあった村)の復興競馬(戦後の競馬法ができる前に各地で行われたいわゆる“闇競馬”のひとつ)に私が乗って出場しました。そうしたら優勝したんです。賞品はタンス一竿。となり近所の人たちがお祝いに来て、樽酒を何斗も買って振る舞ったら、そっちのほうが高くついちゃった(笑)。
それで次はその馬で宝積寺の草競馬に出てまた勝った。今度は賞品に当歳馬(農用馬)をもらいました。そんなことをしていると、だんだん競馬がおもしろくなってきたんです。ただ、七井と宝積寺で勝った馬を宇都宮の“本競馬”に持って行っても実力的に足らない。そこで父にアラブのギンシヨウという馬を買ってもらって出走させることにしました。ところが、草競馬は誰でも乗れたけど、“本競馬”は免許がないと乗れない。そこで、その頃多くの馬を持っていた青木万平という人に紹介してもらって騎手試験を受け、合格しました。そうしてホンモノの騎手になったというわけです。ギンシヨウはその後ケガでダメになりましたが、次に買ってもらったセンシヨウはよく走りましたね。
宇都宮競馬場は最後まで同じところにあって、1周は1200メートル。その頃の足利競馬場があったのは今の田中橋の東側、渡良瀬川の河川敷で、左回りのコース。1周は1000メートルでした。足利に遠征する時、競馬場の近くの“馬宿”(馬とそれに係わる人が利用する民宿)に泊っていたんですが、その家の娘だったのが今の妻です。とある馬主さんが間を取り持って、妻の父が結婚を決めました。私は本当は益子で家を継がなきゃいけなかったんですが、妻がその土地に馴染めず、だったらしばらく妻の実家で暮らしていい、ということになって足利に住むようになりました。それからずっと足利暮らしです。
昭和30年代にスターティングゲートが導入される前は、バリヤー式(スタートラインに張られたロープをスターターがフックを外して跳ね上げる方式)でした。その頃、私が心がけていたのは、とにかくスタートを決めること。ロープから2、3歩後ろに構えておいて、ロープが跳ね上がる寸前に馬をスタートさせるようにしました。そのために観察したのがスターターの顔つき。いざバリアーを上げるレバーを握ろうとすると、顔つきが変わるんですよ。その瞬間を見計らって馬を動かす。そうすると、ロープが上がってから走り出す馬よりも必ず数メートル先に行けます。バリヤー式になる前、紙テープを張って旗の合図でスタートしていた頃からそうしていたので、レースが始まった時にはほとんど必ず何馬身も前に出ていました。あんまり毎回良いスタートを切るもんだから、あるスターターが新任で来たときは「オレが手塚を出遅れさせてやる」って意気込んでいたけど、それでもスタートに失敗することはなかったですね。挙句の果てに、浦和競馬に遠征した時は、どんな馬でもそんなスタートを切るのはおかしい、ってことで、騎乗停止を受けたこともありました(笑)。
スタートがいいと結果に直結します。足利で1日12レースのうち11レースで勝ったこともありましたよ。地全協(地方競馬全国協会)ができる前には、関東の地方競馬騎手の中でも勝率がよかったので、何度か表彰を受けましたし、地全協ができた後も、北関東のリーディングジョッキーとして表彰されました。
調教師専業になったのは昭和40年代。地全協が騎手と調教師の免許を分けるっていうんで騎手を辞めて調教師になりました。調教師になってからの一番の思い出と言えば、やっぱりドージマファイターですね。
*ドージマファイター=1995年に中央でデビューし、5戦未勝利で手塚厩舎に転出。1996年2月7日の足利競馬サラ系一般C4チ組C5イ組戦から2000年11月19日の宇都宮競馬B1級『ひいらぎ特別』まで、日本国内の平地競走では最多の29連勝を記録した。
(ここからは、インタビューの際に同席されていた奥様の話を交える)
あの馬は爪が悪くて苦労しました。ちょっと走るとすぐ裂蹄になっちゃうんですよ。それで、爪が乾かないように、豆腐屋さんからおからを毎朝バケツ一杯買ってきて、それを塗って保護していました。その具合を見ながら、無理せずに出走させたわけです。
転入6戦目までは他厩舎の髙橋(和宏)騎手に乗ってもらいましたが、7戦目で自厩舎の大木義一騎手を起用しました。勝つには勝ったんですが、大木くんが「もう乗りたくないです」って言うんです。ずっと1番人気で連勝していましたから、乗り役にもプレッシャーがあったんですね。その点、髙橋くんは度胸がよかった。29連勝した後、髙橋くんが「あと1つ勝てば30連勝だから走らせましょうよ」と言ってきましたが、もう無理でしたね。とにかく爪が悪くて、もし走らせて負けたら、ただの馬になっちゃう。だから引退だと。
連勝記録更新の前後にはテレビや新聞の人がたくさん取材に来たり、ファンの方から応援のお手紙をいただいたり・・・。バブル崩壊の後で、中央でダメで地方に来たこともあって、「リストラの星」なんて言われましたね。実際にリストラされたサラリーマンの男性から、ドージマファイターに励まされたという手紙をもらいましたよ。東京に白血病で余命宣告を受けた女性がいて、あの馬が走るたびに観戦に来てくれて、勝つと元気がもらえる、生き延びられると話していました。引退後、その方から繋養先の北海道の牧場に行って会ってきたというお手紙をいただいたので、お礼の電話をかけたらお兄さんが出て、「先日、亡くなった」と。お気の毒でしたが、何しろファンの多い馬でしたね。そうそう、ドージマファイターのおかげで、足利市長からも感謝状をいただきました。
それ以外の思い出ですか?昭和55(1980)年の「師走特別」(後の『とちぎ大賞典』)に2頭出しした時のことですかねぇ。前年からそのレースの優勝賞金が栃木では初めて1000万円になった。それで、お金持ちの馬主さんが大井の強い馬(ソウルシヤトー。1979年の羽田盃、東京ダービーの優勝馬)を3000万円で買ってきて、「オレはこの馬で1000万レースを勝つんだ」って言って預けてくれたんです。それともう1頭、ダグラスバルという馬を同じ「師走特別」に出しました。4コーナーで大井から来たほうの馬がいったん先頭に立って、「これは勝つなぁ」と思って見ていたら直線で意外に伸びない。逆に、7番手あたりにいたダグラスバルが伸びてきて、「2着はあるな」と思ったら勝っちゃった。「こりゃぁまずいことになったなぁ」と思いましたよ。1000万円のレースに勝ったのに、素直に喜ぶわけにもいかず、複雑でした。3000万円も出した馬主さんからは、案の定「おい、どうしたんだ、手塚!」って言われましたけど、あの時は何て言い訳したんだか(笑)。まぁ考えてみれば、大井から来た馬は馬格があって形はもちろんいいけど末がユルくて、ダグラスバルは小さいけど末はよかったんです。それと大井の馬は上から下まで二重マルが並ぶ大本命で、ダグラスバルは人気薄。回ってくればいいっていうくらいで、騎手も気楽だったんでしょうね。
昔の足利で馬を持っていた人と言えば、機屋(はたや)さんが多かったですね。それと鋳物屋さん。足利は織物の町で、機屋さんが使う機械も鋳物屋さんが作りますから。ほかでは材木屋さんとか、このへんで事業をやっている人たちがほとんどでしたね。
調教師時代は怒ると怖い、厳しい人でした。弟子や厩務員が1人でも悪いことをすると、全員を正座させて叱る。とくに厩務員が馬をいじめていることがわかるとものすごく怒りましたね。見えないところでいじめていても、馬の様子でわかるんですよ。それでも、ウチを辞めてよその厩舎に行く、なんていう人はいなかったですね。
弟子の騎手に教えていたのは、スタートを決めても、そのまんまハナに行っちゃったらダメ。いいスタートを切った後はちょっと馬を抑えて、他の馬が行こうとしたら行かせて、それからスパートしろ、っていうことです。ハナに行って、ほかの馬が来たときに一緒に行っちゃうと最後まで持たない。1着を取ろうと思ったら、3着か4着でいいという気持ちで乗るんだよ、と。私のスタートは他の誰よりよかったけど、ハナに行ったまんまで勝つのは好きじゃなかった。相手が来たら先にやっておいて、最後に差し返す。そうやって勝つと気持ちがいいんです。馬を抑えるのは人差し指から小指までの感覚。ただこれは、上手にできる者はいるけど、わかっていてもできない者もいますからね。教わったからって、簡単にできることじゃないですよ。
足利競馬は平成15(2003)年、宇都宮競馬は平成18(2006)年に廃止になりましたが、寂しいけど仕方なかったと思います。私らは歳も取っていたのでそういう気持ちでいましたが、若い人が気の毒でしたね。その頃私は調教師会の会長を務めていて、後進に道を譲るために75歳定年制を導入したんです。それまでは制限がなかったので。そうしたら、私が75歳の時に競馬が廃止になってしまった。これはたまたまです。廃止になる前は、何とかみんなが納得する形で廃止を迎えられるように県と交渉もしましたが、なかなかうまくいきませんでしたね。県の人が私に「収入と経費を知りたいので帳簿を見せてほしい」と言ってきました。その帳簿を元に、補償金の額などが決まったようです。ほかの競馬場に行った人もいれば、競馬の世界から離れた人もいて、それぞれに苦労があったはずです。
それにしても、戦後に栃木の競馬が始まってから廃止になるまで、ずっとその競馬に携わってきたわけですね。栃木の競馬がなくなってから20年近く経ちますが、今でもテレビで競馬中継を見ていると声が出ちゃいますよ。「ダメだ、そこで行っちゃ!」なんてね(笑)。
〈手塚佳彦さんはJRAの手塚貴久調教師の父。貴久師の息子・貴徳さんも2024(令和6)年にJRA調教師試験に合格した。佳彦さんから数えれば3代目の調教師がもうすぐ開業することになる〉
内田利雄騎手の話
父が川口オートレースの選手で、同僚の1人が宇都宮競馬の競走馬を持っていました。その人が私を中学校1年生の頃に競馬場の厩舎に紹介してくれたんです。毎週土曜日に厩舎に1泊して、馬の世話を手伝うことになりました。そのうち午後の乗り運動に乗せてもらったり。最初は怖かったですね。乗り心地もよくなかった。座っているところ(馬の背中)が動くでしょ?でも、そのうちだんだん楽しくなっていきました。中2の夏休みからは厩舎に住み込み、宇都宮に転校して本格的に騎手を目指しました。ハイセイコーが活躍していた頃ですよ。
デビューしたのは1978(昭和53)年10月。その前に調教で乗っていたので、初めてのレースでも特別な感じはあまりなかったですね。慣れていたというか。でも、いつもより馬場が広く見えたのを覚えています。レースは4コーナーで先頭に立って、「もしかしたら勝てるかな」と思ったら、ゴール前でちょっと差されちゃいました。すぐに勝てないのは当たり前ですが、翌日には初勝利を挙げられました。
その頃の先輩と言えば福田三郎さん。馬への“あたり”が抜群で、レースの仕掛けどころを心得ている感じでした。大塚栄さんも印象に残っています。思い切った騎乗をする方で、向正面から一気にまくって勝つとか、福田さんとはちょっと違うタイプでした。お二人とも事故で騎手生活を終えられてしまったのは残念ですね。
私が乗っていた馬でみなさんもよくご存知なのがブライアンズロマンとベラミロードですよね。
*ブライアンズロマン=1993年12月、宇都宮競馬の新馬戦でデビュー。2000年12月のとちぎ大賞典まで63戦して43勝を挙げ、戦後日本競馬のサラブレッド最多勝利(当時)を記録し、「栃木の怪物」と称された。重賞は1998年のさくらんぼ記念(上山)制覇や95~98年のとちぎ大賞典4連覇を含め17勝。内田騎手は63戦のうち62戦に騎乗した。
*ベラミロード=1998年7月、宇都宮競馬のしもつけ若駒(JRA認定新馬競走)でデビュー。翌年のしもつけ皐月賞、北関東ダービー、しもつけ菊花賞を制し、栃木競馬3頭目、牝馬では初めての3冠馬となった。南関東やJRAのレースにも積極的に参戦。東京盃(大井、中央交流)を制した2000年にはNARグランプリ年度代表馬に選出されている。27戦中26戦で内田騎手が手綱を取った。
ブライアンズロマンは臆病で用心深い馬でした。いろんなことを気にするんです。でも、ジョッキーには従順で、毎日やっていることならちゃんとやってくれました。だから、とにかく慣らしていくしかなかったです。ただ、スタートは最後までうまくなかったですね。レースでは引っ掛かりすぎないように心がけました。うまく抑えこめば、あとはもう力が違いましたから。
反対にベラミロードは度胸が据わっていて、物事に動じない。“もの見”もしませんでした。室井先生(室井康雄調教師)も私も、初めて見たとき、古馬みたいと思ったくらいです。他の馬とは“乗り味”が全然違いました。あの馬くらい“乗り味”がいい馬には初めて出会いました。調教で乗って「速い馬だな」と感じていたので、その能力を発揮させるために逃げを打ったんです。自分のペースで行けば、付いてくる馬は最後に脚が上がってしまうだろう、ってね。
宇都宮競馬最後の2004(平成17)年度開催(翌年3月で廃止)が開幕した週に、馬の膝で顔を蹴られて乗れなくなったんです。それでいったんは騎手を辞めて調教師になることを考えました。ところが、あと70くらい勝てば3000勝に届く。だったらもう少しやってみようと。それで復帰して、その年の11月に3000勝を達成しました。ところが今度は競馬廃止が決まってしまいました。職場がなくなるけど、他の仕事は思いつかない。そこで、何とか騎手を続けられないかと思い、全国の主催者にコンタクトを取りました。園田のゴールデンジョッキーカップやNARグランプリの表彰式などで一緒になった菅原勲騎手(岩手)が親身になって取り次いでくれたり、室井先生と親交があった千葉四三調教師(同。トーホウエンペラーなどを管理)が尽力してくださったりして、現役を続けられることになりました。
ここまでやってこられたのは、ふだんからの節制を心がけてきたからだと思います。年齢を重ねるにつれて、疲れを残さないようにしたり、トレーニングがオーバーワークにならないようしたり、気を遣わなきゃいけないことが多くなりましたね。長く騎手を続けるというのは、みなさんの想像以上に大変なことなんですよ。(内田騎手はこのインタビューから約2カ月後に引退を発表しました)
森泰斗さんの話
私にとっての栃木競馬は、基礎、土台を作ってくれたところです。やっていいこととやっちゃいけないこと、いろいろ勉強させてもらいました。
中山競馬場の近くに住んでいたこと、中学生の頃に“ダビスタブーム”が起こったこと、サクラバクシンオーがスプリンターズSを勝ったところをナマで見て衝撃を受けたことなどが重なって、騎手になろうと思い立ちました。あのレースを見て、サラブレッドって速くて美しいなぁ、と思ったんですよ。
地方競馬教養センターに入って、卒業したら南関東に行くことを希望していましたが、栃木の先生方から「ウチに来い」というお誘いをけっこういただいたので、足利の佐藤和伸厩舎にお世話になることにしました。周りに知り合いはまったくいませんでしたね。
デビュー戦は宇都宮でした。レースの流れとか周りの動きとか、よく見えていましたよ。緊張して頭の中が真っ白ということはなかったですね。いろんなことが冷静に見えていて、自分で「やれるな」と思ったほどです。ただ、2日後の初勝利の時は「勝てそうだ」と思ってから必死になりましたけど(笑)。
足利にいた頃の私は、とにかく子供。クソガキでしたよ。寝坊するでしょ?そうすると当たり前ですが先生から怒られる。いい馬に乗せてくれなくなります。それでまた反発しちゃう。それと、足利、宇都宮の競馬は中山で見た競馬とはまるで違いましたからね。そんなこともあって、いったんは騎手を辞めちゃおうと思いました。でも、これじゃいけないと思い直して・・・。
栃木の先輩騎手で印象に残っているのは、まず早川順一さん。何度もリーディングを獲った方で、総合力で優れていたというか、何をさせても標準以上にできる方でしたね。それから鈴木正さん。何しろ追える騎手で、力強く追い込んでくる。迫力がありました。それと、髙橋和宏さん。姿勢がキレイで、鞍はまりがよかった。上手な騎手がけっこういましたよ。馬ではシーザースパレスかな。脚元が弱い馬で、上のクラスの馬ではなかったですが、乗っていると安心感があった。1999(平成11)年に5連勝しました。
2003年3月に足利競馬場が廃止され、その後は宇都宮に移りました。当時、私の周りには“宇都宮は潰れない説”というのがあったんです。働いている人は多いし、補償問題もそう簡単には解決できない、議員のオジサンは「ゼッタイに潰しません」って言ってる。まぁそれは票が欲しいからだったんですけど。だから潰れっこない、って。ところが、結局廃止になっちゃった。その頃、他場に移籍できるのは25歳以下の騎手に制限されていたんです。宇都宮で25歳以下だったのは私だけでした。厩舎の兄弟子だった松代仁先生の弟さんが船橋の松代眞先生で、仁先生から紹介していただいて船橋に移籍することができました。宇都宮の廃止がもう1年遅かったら、すんなり移れたかどうか。そういう年齢制限は後に緩やかになりましたけどね。
船橋に行ってからしばらくは、いい馬に恵まれずクサっていました。その後、勝ち始めてマインドが変わったっていう感じですかね。それが去年まで続いたわけです。足利と宇都宮には、ずっとやっていてほしかったなぁ。でも、続いていたら私はどうなっていたか・・・。
宇都宮、足利競馬場の思い出
実は私、多くの寄稿や記事のプロフィールに東京都出身と記してきたが、出生地は埼玉県草加市だ。両親ともに東京生まれで、私も幼稚園に入る前から都内で暮らしていたので東京都出身を自認している(これって、経歴詐称ですか?)。
草加は東武鉄道の沿線にある町。そこで生まれたせいか、同じ東武沿線にあった宇都宮と足利の競馬場には親近感を覚えていた。初めて訪れたのがどちらの競馬場だったかは忘れてしまったが、東武電車で行くのが楽しみだった。
本文にも書いたように、宇都宮の最寄駅・西川田と競馬場との間にある“馬を飼っていた家”とその向こう側の林や、足利市駅から競馬場に向かう途中の渡良瀬川沿いの風景はよく覚えている。風光明媚なのはもちろん足利。宇都宮は隣接する遊園地の観覧車が印象深い。
足利にはドージマファイターが連勝記録を塗り替えたレースや最終日の開催も見に行った。ドージマファイターの時はとんでもない数の観客や報道陣らが押しかけ、東入場門を入ったところに店を構えていた食堂は早くから大繁盛。昼頃にはほとんどのメニューが品切れとなるほどだった。最終開催の日は“全国実況アナウンサーフェスティバル”の流れで場内実況も担当した。その時、今は南関東4場や金沢で活躍している大川充夫アナウンサーに初めてお目にかかった。ものすごく背が高い人というのが第一印象。そんなこともあって、“最後の日”なのに寂しさは紛らわされた。まだ宇都宮が残っていたのも“救い”になっていたと思う。
足利廃止の2年後、宇都宮最後の日も競馬場に足を運んだ。春の陽が降り注ぐ好天に恵まれ、多くの人たちが最終レースを見届けた。その後、馬場が解放され、ファンが思い思いにそこを歩いて名残を惜しんだという記憶がある。
両競馬場の歴史をさかのぼると、宇都宮は1933(昭和8)年の開場以来ずっと同じ場所にあったが、足利は2度移転していた。初代は東武線の足利市駅と野州山辺駅の間、線路の南側にあった。競馬場開設当初、同線には競馬場前臨時駅が設けられた。戦後、渡良瀬川を渡る田中橋東側の河川敷に造られたのが2代目。この競馬場は大雨で渡良瀬川からあふれた水をかぶり、再移転を余儀なくされてしまう。その跡地は今、足利市立渡良瀬運動場となっている(競馬場の跡地は運動場に転用するのが手っ取り早いのかも)。そして、1969(昭和44)年、3代目の足利競馬場が同市五十部(よべ)町にオープン。2003(平成15)年に廃止されるまで、ここでレースが行われた。
宇都宮と足利の競馬場は約70年にわたって歴史の糸を紡いできた。新しく生まれ変わった両競馬場の跡地には、その歴史が埋められている。
矢野吉彦(やのよしひこ)
1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は281カ所に及ぶ(2024年末現在)。