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Mr. PINK内田利雄騎手引退


さすらいジョッキー伝説
 笑顔で締めた46年半の騎手人生

2005年2月8日に行われた、NARグランプリの表彰式。Mr. PINKこと内田利雄騎手は、地方競馬通算3000勝を達成して特別賞を受賞した。しかし内田騎手が所属する栃木の宇都宮競馬は、既に廃止が決まっていた。ブライアンズロマンやベラミロードと共にビッグレースを制し、カッツミーでJRAのラジオたんぱ賞(2002年)を勝利した名手の身の振り方に注目が集まるなか、内田騎手は宣言した。

「われわれが持っている騎手免許は全国免許なので、できることなら日本全国の競馬場を乗り歩きたい。ただ、今の地方競馬にはフリー騎手という制度がなく、所属競馬場がなくなると騎乗できなくなってしまいますから、全国どこでも乗れるように変えていきたいんです」


それから1カ月後の2005年3月14日、宇都宮競馬は最後の日を迎えた。2001年から2005年にかけて7つの競馬場が廃止された。中津、新潟(三条)、益田、足利、上山、高崎、そして宇都宮。残った競馬場も“明日は我が身”の崖っぷちで、どんよりとした閉塞感に包まれた時代だった。

そんななか、内田騎手は各競馬場の主催者や関係者に電話をかけてこう主張した。

「宇都宮に限らず、地方競馬の馬券が売れなくなった原因のひとつとして、レースのマンネリ化があると思うんです。毎回毎回、同じメンバーでレースをやっているから、お客さんが離れていったんじゃないでしょうか。もっと騎手が自由に行き来して、腕を競い合うことができれば、レースは白熱して面白くなると思うんですよ。お客さんも喜んでくれるはずです」

地方競馬を活性化させる役割を買って出たわけだ。しかし当時は賞金や騎乗手当が下がり続けていた時代。内田騎手を受け入れる競馬場は、すんなりとは決まらなかった。さすらい計画はのっけから暗礁に乗り上げたかと思われたのだが……。

2000年二荒賞で現役最後の勝利を挙げたブライアンズロマン
(通算43勝は当時のサラブレッド系最多勝記録)


2000年東京盃で勝利を挙げたベラミロード

若い子たちのためにも――期間限定騎乗のパイオニア

岩手競馬の調騎会が内田騎手の働きかけに共鳴し、<通算1000勝以上を挙げている騎手に、年間約2カ月の『短期所属替』を認める>という新制度(当時)を設けた。

宇都宮の廃止から3カ月後の、2005年6月25日。岩手の水沢競馬場で、43歳の内田騎手は復帰を果たした。

「岩手で再デビューしたときは本当に嬉しかった。『ああ~競馬に乗れるんだな』と喜びを噛みしめました」

初戦は2着で、7月3日にさすらい初勝利。以降も水沢・盛岡で活躍し、2カ月弱で19勝を挙げた。

「僕が広げた大風呂敷をメディアのみなさんが大きく取り上げてくださったことや、岩手競馬関係者のみなさんのお力添え、ファンのみなさんの後押しが、道を作ってくれました。お礼の印に、セクシーな流し目を送っています(笑)」

パドックでカメラを構えるすべての人に濃厚なほほ笑み返しを送り、騎乗最終日の8月16日には盛岡競馬場でライブを行い、ファンや関係者に惜しまれながら、みちのくをあとにした。

次のさすらい先は、岐阜の笠松競馬場だった。

「岩手で乗り始めたときに、スポーツ新聞で『笠松の川原正一騎手、兵庫へ移籍』という記事を読んだんです。それで『次は笠松に売り込んでみよう』と思っていたら、なんと水沢に笠松競馬の職員さんが現れた。ミツアキサイレンスと川原さんが(JRA)福島へ遠征した日の翌日に、僕に会いに来てくれたんです。『次に乗りに行かれる競馬場はあるんですか?』と聞かれて『ぜんっぜん決まってません!』と答えたら、『よかったら笠松に来てもらえませんか?』って」

2005年9月19日から、笠松/名古屋での騎乗がスタートした。当時の笠松競馬の下級クラスの1着賞金は15万円。「危険を伴う職業なのに、賞金が安すぎるのでは?」と問うたことがある。

「高いに越したことはありませんが、安くても気になりませんよ。だって、宇都宮がなくなった時点でゼロだったんだから。それに、若い子たちに道を作ってあげたいという想いでやっていることでもあるんです。リーディングジョッキーを夢見て腕を磨いているうちに競馬場が廃止されて、騎乗の場がなくなってしまうなんてかわいそうでしょう?」

桃色の鞍を丁寧に手入れしながら、内田騎手はいつになく真面目な表情で語った。

「若い子たちが騎手を続けられるような制度や環境を、作っておいてあげたいんです」

笠松/名古屋では約3カ月で21勝を挙げた。さらに朗報が届いた。南関東競馬に『期間限定騎乗』という制度が設けられたのだ。

<通算2500勝以上を挙げている騎手は、年間2カ月以内に限り、南関東競馬(大井、船橋、川崎、浦和)で騎乗することができる。ただし、年間4人まで(当時のルール)>

さすらいの3000勝ジョッキーのために作られたような制度。山を動かしたのだ。2006年1月1日から2カ月間、内田騎手は埼玉の浦和競馬場に所属し、南関東の競馬場で騎乗。2カ月で16勝を挙げ、南関東リーディングの8位に相当する成績を収めた。流れは全国に広がって、各地の競馬場には期間限定騎乗や重賞スポット騎乗の制度が設けられた。内田騎手は言った。

「人が決めたことは変えられるんですよ。だって人が決めたルールなんだから、人が変えられるんです。時代の流れに応じて、みんなで話し合いながら変えていったらいいんですよ」

内田騎手は全国を渡り歩き、2009年5月20日、グランシャリオナイターが始動した北海道の門別競馬場で、現存するすべての地方競馬場(ばんえいを除く)でレース騎乗を果たした。

空白期間ができぬように騎乗先を決めて予定を組み、愛車に家財道具を詰め込んで長距離運転。事実上のフリー騎手と言っても、期間限定騎乗中は特定の厩舎に所属し、調教にも精を出した。周囲の人達と良好な関係を築きながら真面目に仕事に励み、レースで結果を出す。そして家族を養う。決して簡単なことではないはずなのに、内田騎手は軽やかに競馬場を渡り歩いた。

マカオでG1制覇、韓国釜山でリーディング

海外もさすらった。2008年にはマカオのタイパ競馬場で、マカオ香港トロフィーというG1レースを制覇。同じく2008年には韓国の釜山慶南競馬場で6月から12月まで騎乗して69勝を挙げ、釜山リーディングに相当する勝ち星を挙げた。また、2011年4月には、メイセイオペラ産駒のソスルッテムンの手綱を取り、KRAカップマイルという韓国版皐月賞を制覇。東日本大震災の発生から3週間後の快挙だった。

「韓国で初めて重賞を勝つことができました。感無量です。メイセイオペラの子供で勝てたことが、なにより嬉しい。厳しい調教に耐えてくれた馬に、感謝しています。岩手競馬のみなさんに、よろしくお伝えください」

2012年4月に内田騎手は浦和競馬の所属騎手(完全移籍)となったが、1年間は“さすらい騎乗”を続けた。

「もう若くない僕がさすらうことができたのは、ファンのみなさんのおかげです。感謝の気持ちをみなさんに伝えたいんです」

8年間に及んださすらい生活を51歳で締めくくり、2013年4月からは南関東に腰を据えての騎乗がスタートした。

「いろんな事情があって、騎手を辞めざるを得なかった人たちがいる。だから幸運にも騎手を続けられている僕は、みんなのぶんまで頑張らなくちゃ。1日でも長く、馬に乗り続けたいですね」

月日は流れて、期間限定騎乗制度はマイナーチェンジを重ねながら地方競馬に根付いた。後輩ジョッキー達はこの制度を活用し、切磋琢磨しながら地方競馬を盛り上げている。道なき道を切り開いた内田騎手の功績はとてつもなく大きい。ところが本人は「特許をとっておけばよかったですね(笑)」なんてジョークにしてしまう。

岩手の山本聡哉騎手は言う。

「新しい道を切り開いた内田さんは、すべてが凄いですよね。実力や実績はもちろん、ジョッキーの模範となる人格者だからこそ、どこの競馬場にも受け入れられて、期間限定騎乗のシステムが整備されていったんだと思います」

内田騎手と山本騎手は、20年来の間柄だ。2005年6月、水沢競馬場の厩舎地区へ初めて足を踏み入れた内田騎手に声をかけた“第一村人”ならぬ“第一厩舎人”が、デビューほやほやの山本騎手だったのだ。

「内田さんに自分のレースを見てもらって、アドバイスを聞きに行く日々を送りました。内田さんが、自分の競馬スタイルの基礎を作ってくれたんです」

そんなピンク塾の一番弟子は、いまや押しも押されもせぬ岩手リーディングの常連。今年(2025年)1月から3月にかけては船橋を拠点に南関東で期間限定騎乗を行い、21勝を挙げた。

集大成のファンサービス、幸せなジョッキー人生

宇都宮競馬の廃止から20年。63歳になった内田騎手は、引退を決断した。46年半の騎手生活を締めくくり、4月から地方競馬全国協会の参与(マイスター職)に転身。栃木の地方競馬教養センターの教官として、騎手候補生の育成にあたる。騎乗を見られなくなるのは寂しいけれど、さすらいながら各地の若手に的確なアドバイスを送ってきたMr. PINKは、どんなジョッキーを育てるのだろう。楽しみでならない。

2025年3月21日、浦和競馬場。18時20分発走の第12レース『~感動をありがとう~内田利雄騎手引退特別』がラストライドとなった。パドックで騎乗馬のエイシンヘーメラーに駆け寄ると、いつものごとく丁寧に一礼をして跨った。

「ウッチーありがとー!」「内田さん頑張ってー!」「ピンクー!!」

熱い声援が飛び交う中、とびきりの笑顔を浮かべたMr. PINKは、百万ドルの流し目を送りまくった。

「内田さんいけるぞー!」「差せ、差せ、差せー!」「ピンクー!!」

大歓声を浴びながら、懸命に脚を伸ばして3着。最後まで魅せた。自然と拍手が湧き起こった。


悔しさと清々しさが混ざり合った表情で上がってきた内田騎手は、後検量を終えると、競馬場で働く従事員さん達を優しく抱きしめた。仲間を大切にする人柄がにじみあふれた。

あたたかい引退式とジョッキー仲間による胴上げのあとは、宇都宮競馬時代からのバンド仲間兼オーナーと共にライブを行い、2曲のバラードを歌い上げた。ライブが終わったのが20時過ぎ。ほどなくして、サイン&写真撮影タイムに突入した。

引退式のタイムテーブルを組む際に、内田騎手は切望した。

「最後のひとりまでサインを書き、写真を撮りたいんです。勝負服姿でファンのみなさんと写真を撮れるのは、これで最後だから」

この熱い想いを、浦和競馬の人達は受け止めた。内田騎手は朗らかな笑顔でファンと言葉を交わし、22時20分までファンサービスをやりきった。愛し愛されるMr. PINKの生き様を凝縮したような、特別な時間だった。

「宇都宮競馬が廃止になったのはとても悲しかったのですが、北海道から九州、海外の競馬場にも乗りに行って、みなさんのおかげで好きな騎手を続けることができました。こんなに幸せなジョッキー人生はないと思います。やっぱり、ファンの力って大きいですね。とても幸せな卒業式でした」


井上オークス

写真井上オークス、いちかんぽ、NAR