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的場文男騎手引退


数々の最年長・最多記録を残し
 半世紀の騎手生活にピリオド

地方競馬の騎手として歴代最年長の的場文男騎手が、半世紀を超える現役生活に、ついにピリオドを打った。

的場騎手は数々の大記録を残してきたが、そのハイライトは、不滅と思われていた佐々木竹見さんの地方競馬通算7151勝の記録更新だろう。その記録更新となる通算7152勝は、2018年8月12日、地元の大井競馬第5レースで達成された。このとき61歳、翌9月7日には62歳を迎えた。2020年11月には、中央・地方を通じて騎手としては初となる黄綬褒章を受章した。

記録を更新してもなお、的場騎手は現役にこだわり続けた。「目標があるから頑張れる」と常々言っていた的場騎手は、何を目標に乗り続けたのだろう。無人の荒野を行くが如く伸ばし続けた勝利数は、地方競馬通算7424勝(ほかに中央4勝、海外1勝)。2024年1月22日、大井競馬第10レースがその最後の勝利となった。そして結果的に最後の騎乗となったのは、同年7月8日、大井競馬第3レース(3着)。最年長勝利記録は67歳4カ月15日、最年長騎乗記録は67歳10カ月1日、最多騎乗数記録は4万3497戦(地方のみ)でピリオドが打たれた。

地方競馬最多勝利数の記録更新(シルヴェーヌ)

印象的だった帝王賞3勝

2025年2月17日には引退会見が大井競馬場で行われた。

引退に至る直接の原因として語られたのは、前年2月13日のレース中に左膝を痛めたことによる靭帯損傷だった。

「10日くらい休めば乗れるかなと思っていたんですけど、とんでもなかったです。普通に生活するには問題ないですけど、少しひねっただけで歩けないほどになるんです。それで5カ月ほど休んで、7月のはじめ(8日)に騎乗しました。ところがゲートを出るときに膝が痛くて、これはダメだな、騎手はやっていけないのかなかと思いました。骨折とは違って、靭帯は完全には治らないです」

しかし、騎手をやめるにあたって未練はないという。

「6000勝したあたりから、7000勝、そして佐々木竹見さんの記録がだんだんと見えてきて、ここまで来たら日本一に、という目標に向けてがんばってきました。その目標があったから67歳まで乗れたんだと思います。竹見さんの記録がなければ、もっと早くに騎手をやめていたかもしれません」

印象に残っている馬やレースは、という質問に対しては、帝王賞を挙げた。

「帝王賞は、ハシルショウグン、コンサートボーイ、ボンネビルレコード、3回勝ちましたからね。どれもうれしかったけど、特にどれかといえば、コンサートボーイ、ボンネビルレコード。同じくらいうれしかった」

1997年6月24日の帝王賞。コンサートボーイの鞍上は当初、内田博幸騎手で決まっていた。ところがその3日前、内田騎手は他馬を落馬させる進路妨害で騎乗停止。騎乗予定がなかった的場騎手に鞍上がまわってきた。

普段は後方からレースを進めるコンサートボーイが抜群のスタート切った。断然人気だったバトルラインが逃げ、それを前に見ながら3番手を追走。そして直線、バトルラインをとらえようかというところで、じわじわと迫ったアブクマポーロとの追い比べとなり、これをクビ差で振り切っての勝利。的場騎手にとっては道中のレース運びから完璧だったという会心のレース。

中央・地方の交流が拡大され、交流元年と言われたのが、その2年前の95年。中央勢相手にGIで地元南関東所属馬のワンツー。しかも当時南関東のトップツーだった石崎隆之騎手(船橋)との叩き合い。翌98年には、アブクマポーロが川崎記念GI、帝王賞GI、東京大賞典GIを制するなど中央馬相手に快進撃を続けたことも含めて、印象的なレースだった。

ボンネビルレコードは大井・庄子連兵厩舎からのデビュー当初から的場騎手が手綱をとり、3歳時に黒潮盃、東京記念、4歳になってサンタアニタトロフィーなどを制した。ところが2007年の5歳春、的場騎手が浦和競馬の開催で大怪我を負って休養しているタイミングで、ボンネビルレコードは中央に移籍してしまった。しかしその年の帝王賞JpnIでは復帰した的場騎手が手綱をとり、1番人気のブルーコンコルドを1馬身半差でしりぞけて勝利。さらに翌年のかしわ記念JpnI、日本テレビ盃JpnIIも的場騎手で制した。

ボンネビルレコードの中央所属時の成績は25戦3勝。そのうち的場騎手では13戦3勝、2着2回、3着2回。中央の騎手では一度も勝てず、武豊騎手で3着が一度あるだけ。ボンネビルレコードと的場騎手は、それほど相性抜群だった。

東京ダービーは39戦2着10回

的場騎手は51年5カ月に渡る騎手生活で、東京ダービーには39回騎乗して2着が10回。むしろ勝てないことで注目を集め続けた。勝つことはできなかったものの、じつに4回に1回は2着だったことになる。残した記録以上に、記憶にも残る騎手だった。

2着馬を列記すると、86年シナノジョージ、87年シナノデービス、89年ホクテンホルダー、92年ナイキゴージャス、98年ゴールドヘッド、99年タイコウレジェンド、03年ナイキゲルマン、04年キョウエイプライド、15年パーティメーカー、18年クリスタルシルバー。このうちもっとも勝利に近づいたのは、ゴールドヘッド、クリスタルシルバーでのクビ差だった。

58歳、パーティメーカーに騎乗して9度目の2着だった東京ダービーの直後、検量室前で発した「ダービーは人生の宿題だよ」という言葉が話題になった。

61歳、6番人気のクリスタルシルバーは、直線4頭が横に広がっての追い比べ。ゴールでは「マトバ!来たか!どうだ!」という実況。しかしハセノパイロにわずかに及ばず2着。4着まで、クビ、クビ、ハナという差の大接戦だった。

記者会見での「一番悔しかった東京ダービーは?」という質問には、2着だった馬ではなく、ブルーファミリー(93年)と答えた。

ブルーファミリーはデビューから7連勝で羽田盃を制していた。的場騎手はデビューから手綱をとり、圧倒的なスピードでほとんどが逃げ切りだった。東京ダービーでは、南関東史上初となる無敗のダービー制覇という記録もかかっていた。

ブルーファミリーは気性難があり、デビュー戦以外はすべて“外枠希望”で勝ってきた。当時の南関東には、事前に希望すれば外枠に入れるルールがあった。しかし当時の東京ダービーは2400メートル。

「羽田盃の2000メートルまでは外枠でもよかったんです。でも当時の東京ダービーは、3コーナー手前からのスタートで、外枠は絶対的に不利なんです」

的場騎手は普通に枠順抽選することを管理する栗田繁調教師に希望したが、このときも外枠希望での投票だった。

14頭立ての大外に入ったブルーファミリーはスタートで出遅れ。それでも早めに位置取りを上げ、最後の直線では単独2番手。的場騎手は見せ場をつくったが、そこまで。スタートからハナをとったプレザントが後続を寄せ付けず逃げ切り。ブルーファミリーは力尽きて5着。的場騎手は、「外枠希望でなければと思うと、その夜は悔しくて眠れなかった」と思いを語る。

大井・佐賀で引退セレモニー

3月24〜28日の大井開催では、的場文男騎手の偉業を称えるさまざまな企画が実施された。

各日の最終レースには、的場騎手が騎乗した活躍馬の名を冠した。初日から順に、ナイキジャガー賞、カウンテスアップ賞、ハシルショウグン賞、コンサートボーイ賞、ボンネビルレコード賞。それぞれのレースの前には、的場騎手の手綱で制したレース映像がビジョンや場内モニターで放映され、レースを盛り上げた。

そして最終日28日のメインレースは、『大井の「帝王」賞』。表彰式では勝負服姿の的場騎手がプレゼンターとして登場すると、ファンからの拍手と声援で迎えられた。

「長い間、50年以上騎乗してこられたのは、ご来場のファンの皆様の応援があってできたことです。心より感謝申し上げます」と挨拶。再び大きな歓声と拍手が沸き起こった。

そのレースを勝ったのは、川崎の野畑凌騎手。赤に白星があるデザインの勝負服は、的場騎手の想いを引き継ぐかのような表彰式となった。

大井所属騎手や当日騎乗していた騎手との記念撮影では、ファンから「フミオ」コールが起こった。その後の胴上げでは4回宙を舞った。

この日、的場騎手の“赤、胴白星散らし”の服色が永久保存されることも発表された。地方競馬で騎手服が永久保存となるのは、佐々木竹見氏(川崎)、石崎隆之氏(船橋)、森泰斗氏(船橋・現調教師)に続いて4人目のこと。

冒頭のとおり前年7月8日が結果的に最後の騎乗となったが、騎手免許は3月末日まで有している。“騎手”として最後にファンの前に出たのは、3月30日の佐賀競馬場。第1レース前に引退記念セレモニーが行われた。

的場騎手の出身は福岡県大川市。旧佐賀競馬場があった佐賀市とは筑後川を挟んですぐ隣。太平洋戦争から復員した父が、その佐賀競馬で馬主になっていた。兄の信弘さんは佐賀競馬場で騎手になり(のち調教師)、小学生の頃から父に連れられて競馬場に行っていた文男少年も自然と騎手を目指し、その兄からは東京へ行くことを勧められた。中学3年の夏休みに単身で上京。そして大井の名門、小暮嘉久厩舎で中学に通いながら下積みをして、騎手になった。

「佐賀競馬場では、里帰りジョッキーズカップや的場文男レジェンドカップ等を開催いただき、毎年楽しみにしていました。騎手は引退しますが、佐賀競馬場にはたまに遊びに来たいと思います」と挨拶。その引退セレモニーには、地元関係者のほか、的場騎手が所属馬で大レースを制した川崎の内田勝義調教師や、父が佐賀の調教師である大井の真島大輔調教師も参列した。

2013年桜花賞(内田勝義厩舎所属馬のイチリュウ)

前例のない騎手免許返納式

騎手という立場の最終日、3月31日には地方競馬全国協会で騎手免許返納式が行われ、NAR斉藤弘理事長に騎手免許を返納。公開は関係者やマスコミに限られたとはいえ、免許返納をセレモニーとして行ったのは初めてのことと思われる。

そして、騎手候補生時代に教官として的場騎手を指導した早川平八氏がサプライズゲストとして登壇。これには的場騎手も驚いた様子で、早川氏からは記念品が贈呈された。

インターネットのファン投票で選ばれた的場騎手のベストレースも発表された。ベスト3は、的場騎手自身も印象に残るレースとして挙げた帝王賞の3戦。3位は93年のハシルショウグン、2位は97年のコンサートボーイ、そして1位は07年のボンネビルレコードだった。

「51年間も騎乗できたのは、競馬関係者の皆様にかわいがっていただき、ご来場になるファンの皆様の声援があって7424という勝ち鞍になったと思います。競馬関係者の皆様、応援してくださったファンの皆様には感謝の気持ちで一杯でございます。今後は、大井競馬に恩返しをしていきたいです」

騎手・的場文男として最後のあいさつとなった。


斎藤修

写真いちかんぽ、NAR