2000年代。ホッカイドウ競馬は存廃の岐路に立たされていた。1999年に、時の堀北海道知事からの〝存廃の結論〟を求める諮問を受けていた北海道地方競馬運営委員会は、存続を前提としながらも構造改革と収支の改善を強く求める答申を提出したのだが、それを機にホッカイドウ競馬の運営環境は大きく変わっていくことになる。
かくいう私も運営委員としてこの答申の策定にかなり主導的な立場で関わっていたのだが、大幅な賞金、諸手当のカットをもっての減量経営の実施には、厩舎関係者に対するある種の申し訳なさを感じるほどであった。おそらくは、厩舎人の誰もが日々の競馬と向き合うモチベーションを維持するのは難しかったと思う。この状況が2009年の門別一極開催。全日ナイターに転じて軌道に乗るまで続くのだから、2000年代はまさに雌伏の時代であった。
ところが、競馬に目を向けると、雌伏どころか、驚異的な実績を残している。2000年から2009年までの10年間で、ホッカイドウ競馬の所属馬はダートグレード競走を11勝。中央の重賞を8勝もしているのだ。
それ以外にも、出身馬のアローキャリーが桜花賞を勝っており、黄金時代そのものと言って過言ではない戦績なのである。
2000年代の活躍馬は、前述の実績が示す様に枚挙に暇がなく、ここでどの馬を取り上げるか悩んだのだが、〝ホッカイドウ競馬は2歳〟の定評を踏まえ、この黄金時代の先陣を切った2001年の札幌2歳ステークスの勝ち馬ヤマノブリザードについて触れることにする。
ヤマノブリザードのキャラクターをひと言で言うと〝よく教育された馬〟である。
手綱を取ったのは、この時14年目の川島洋人騎手。デビュー以来キャリアなりの成績を残してきた中堅だが、所属する鈴木英二厩舎は遡ると中央の名伯楽、武田文吾師と同門という北海道の名門厩舎で、兄弟子には名手の誉れ高い松本隆宏騎手がいたこともあって、なかなかスポットライトが当たらない立ち位置にあり、ホッカイドウ競馬同様、雌伏の時を過ごしていた。それだけに、自身が担当する馬に対しての力の入れ様と責任感は並々ならぬものがあったと記憶している。
2001年の彼の担当馬の1頭がヤマノブリザードである。デビュー前の調教は勿論入念。ただ、攻め抜いて仕上げるというより、鞍上との呼吸など実戦での走り方を教えることに主眼を置いていたように見受けられた。デビュー戦は5月9日の札幌。1000メートルのフレッシュチャレンジ新馬戦。勝ちタイムの1分2秒1は水準級だったが、相手を見ながら脚を伸ばすというレースぶりは、〝伸びしろ〟と〝調教での学習効果〟を感じさせるものだった。続く2、3戦は何れも3着に終わったものの、2戦目は出遅れが影響し、3戦目は1500メートルへの距離延長にもかかわらず4角先頭という敢えて負荷の大きいレース運びをした背景があり、目先の勝利を過度に追い求めていない姿勢が見えた。おそらくは、潜在能力を踏まえた上で川島洋人騎手がこの馬の個性を確実に把握することに専念していたのだろう。
この3戦目の3着でJRA札幌開催の特別指定交流競走クローバー賞の出走権利を得たヤマノブリザードは、その臨戦過程で鞍上の指示に鋭く反応するようになっていく。
そして本番のクローバー賞1500メートル。12頭立ての8番人気という低評価をあざ笑うように、ヤマノブリザードは中団から末脚を爆発させて勝利をもぎ取って見せた。芝適性だったり、メンバーレベルだったり、勝因は様々推測できようが、当方の目には調教の成果が如実に表れたものと映った。鞍上の指示をしっかりと受け止めて闘争心を発露させる2歳馬らしからぬレースぶりは、多くのJRAファンとマスコミに強烈な印象を与えたのは間違いない。次走の札幌2歳ステークス(GⅢ)で1番人気に支持されたことがそれを雄弁に物語る。
札幌2歳ステークス(GⅢ)に駒を進めることになったヤマノブリザードと川島洋人騎手のコンビは、それまでにも増して調和の度合いを高めていく。この時の最終追いきりのラスト1ハロンは12秒0。両者の間に阿吽の呼吸があるかのような走りっぷりだった。
かくして大一番に臨んだヤマノブリザードは前述したように1番人気。後談だが、この時川島洋人騎手はプレッシャーを感じつつも負ける気はしなかったという。
ところが、もともとゲートの反応が良くない性質のヤマノブリザードはスタートで出遅れてしまう。川島洋人騎手は〝少し肝を冷やした〟とはいうものの、相方の末脚と根性を信じて鞭を振るったそうだ。馬群を縫って進出し、4角では他馬の競り合いにも負けないレース運びとなった。それができたのも調教で培われた完成度の高さがあればこそだろう。
ホッカイドウ競馬の2歳馬はレースの習熟度が高いとはよく言われることだが、川島洋人・ヤマノブリザードのコンビがそれを体現して見せたのが、この札幌2歳ステークスだったと今でも思う。
川島洋人騎手は調教師に転じ、昨年のJBC2歳優駿に勝ち、全日本2歳優駿で3着になったソルジャーフィルドを送り出したが、その調教方針や成長の軌跡はヤマノブリザードのそれと被るものがある。
先が見えない時に、自らが持つスキルと情熱を持って光明を見出したシーンは、ホッカイドウ競馬に大きな力をもたらしたのは明らかだろう。
その意味でも、ヤマノブリザードの功績は長く記憶に留めておきたい。
高倉克己
1953年9月30日生。
大学時代から府中通いを続け、1979年に競馬研究に入社。1963年の皐月賞で見たメイズイの強さに魅せられ、日本ダービーも勝って三冠達成を期待させながら6着に敗退。〝強い者が負ける美学〟を感じた。野球に夢中だった少年時代の経験と競馬の勝ち負けを重ねていっそう魅了されていった。忘れられない馬にはキタノカチドキ。皐月賞では初の単枠指定となり、生で見たトモの大きさ、走りの可動域など後肢の使い方は次元の違うもので走るメカニズムの面白さを知った。現在は競馬ブックの評論家としてホッカイドウ競馬の配信でパドック解説などを担当。〝個体差〟を重視した視点で解説をしている。