山形県の上山(かみのやま)競馬場は私にとって“特別な”競馬場だった。それについては“思い出”の項に記すとして、まずはその跡地を訪ねたレポートから。
最寄り駅は茂吉記念館前
上山競馬場には、かみのやま温泉駅(新幹線ができる前は上ノ山駅)からタクシーで行くことが多かった。場内実況アナウンサーの與那覇豊和(よなはとよかず)さんと親しくなった後は、車で迎えに来てもらったこともあって送迎バスを利用した記憶はなく、上ノ山駅からそれが走っていたかどうかも覚えていない。
競馬場の“最寄駅”だったのは奥羽本線の茂吉記念館前。
もともとは北上ノ山という名前で開業した駅で、競馬場正門までは上り坂を歩いて10分ほどで行けた。“競馬場前駅”と名乗ってもいいくらいだったが、かつては駅と競馬場の間に山形県立上山農業高校(現・上山明新館高校)があり、その通学の便を図って設けられたと思われる。この駅を利用して競馬場に向かったことも1、2度あったので、今回もそこから探訪を始めた。
普通電車しか止まらないホームだけの無人駅を出て競馬場があった方向へ。広い道路に突き当たって右(山形方向)へ進むと、すぐに「場外発売けいば」と書かれた看板が見えてきた。競馬が廃止された後、元は厩舎地区だったところにできた「ニュートラックかみのやま」という場外発売所の看板だ。
看板の先には、真新しい巨大な施設がそびえ立っている。東和薬品の山形工場で、競馬場の跡地をフル活用して建設された。同社のホームページによれば、大阪工場の25億錠、岡山工場の50億錠をはるかに上回る100億錠の生産が可能な最新最大の工場とのこと。看板横から工場へと続く坂道を上って行った。
工場正門前と競馬場入場門跡
看板横から工場正門へ続く道は、もともとは競馬場への“アクセス道路”だった。今の道はそれを拡張したもので、坂の途中からいくらか工場寄りにコースを変えている。
道の左側に“アクセス道路”の跡が残っていた。
Googleの空中写真を見ると、工場正門から東西に伸びる柵は馬場の外ラチがあったあたりに設けられているようだ。4コーナー跡のカーブも確認できる。
かつての“アクセス道路”は競馬場入場門に突き当たって終わっていたが、今の道は右手の工場と左手の駐車場との間を通って先に伸びていた。
馬頭塔、慰霊碑、記念碑・・・
表にはどちらも“馬頭塔”という文字が刻まれていた。大きいほうは“くずし字”になっているので、それだけしかなかったら何と刻まれているのかを判別できなかったかもしれない(そういう知識に乏しいもので・・・)。ただ、その脇に添えられた「昭和十年十月」の文字は読み取れた。第1回の上山競馬は1935(昭和10)年10月18日から3日間、上山競馬倶楽部の主催で行われている。大きいほうの馬頭塔はこの時に同倶楽部が建立したものに違いない。
2基の馬頭塔の右には“慰霊の碑”があり、騎手3人と調教師、厩務員各1人の名前に、日付けと享年が記されていた。こちらはレース中や調教中の事故で亡くなった方々の慰霊碑だ。
“記念碑”には、昭和10(1935)年の初回開催から平成15(2003)年の廃止までの上山競馬の沿革に加え、「上山競馬場の本馬場より、慰霊碑及び馬頭塔を当地に移し、今日の隆盛を見ずに逝去された調教師、騎手、厩務員の御霊に対し、心から哀悼の誠を捧げると共に、ひたむきに駆けぬけてくれた主役の競走馬の御霊を永代に鎮魂し、深く感謝の意を表し、ここに記念碑を建立する」という一文が刻まれていた。小公園は、かつて競馬場の中にあった馬頭塔や慰霊碑を移設し、1カ所にまとめた“慰霊の園”だったわけだ。
これまで訪ね歩いてきた廃競馬場跡にこのような場所が設けられていたところはなく、馬頭塔や慰霊の碑を残した方々の思いが伝わってきた。一方で、他の廃競馬場にもそういうものは少なからずあったはずで、それらの行方を考えずにはいられなくなった。
“アクセス道路”の桜並木と駐禁標識
“慰霊の園”のところで、道は二手に分かれている。先ほどまで歩いてきた道から左に曲がり、駐車場の南側を回って工場正門前に戻る弓なりの道は、かつてかみのやま温泉駅から車で競馬場に向かうときに車で通ったもう1本の“アクセス道路”。春の競馬開幕を彩った桜の並木はいまだ健在だった。
競馬廃止から20年以上の月日が流れたが、そのあたりには、今も競馬が行われているような雰囲気が漂っていた。
ニュートラックかみのやま
そのあたりは2コーナーの外側。左に行けば上山市街、工場に沿って右へ行けば山形市方面に至る。競馬場と厩舎地区の間を通っていた道で、かつては競走馬を安全に通行させるための“歩道橋”がそれを跨いで架けられていた(競馬廃止後に撤去)。
元は厩舎が建ち並んでいた場所には、先に書いたように「ニュートラックかみのやま」と来場者用の駐車場が設けられている。
もともとは南関東と岩手競馬の場外発売所だったが、今はそれ以外の地方競馬やJRAの馬券も日程を限って発売されている。私が訪れたのは平日で館内は至って物静かだった。
1階は入場無料の一般フロア。その片隅には、おそらく上山の競馬が行われていた頃から営業を続けてきたと思われる予想屋サンの“ブース”があった。
1985(昭和60)年の樹氷賞で優勝したセキノカツヒメのミニチュア馬像や、カガリスキーが1995(平成3)年に東北優駿(水沢)、北日本オークスを制し、JRAのローズステークスに出走した時の記念のプレートなどだ。
いくつかの記念品は、競馬廃止後に散逸しかけていたところを、元市議会議員の須田勝男さんが譲り受けて寄贈したもの。それらは踊り場脇の窓際に雑然と置かれている。もう少しいいところに“メモリアルコーナー”を作って保存してほしいと思う。
「ニュートラックかみのやま」を出て、来た道を戻る。“慰霊の園”から遠くを眺めると、蔵王の山並みが見えた。“慰霊の園”が設けられたのはかつてのパドックから西にいくらか離れた場所で、山の姿は手前にある“元アクセス道路”の桜並木に挟まれて少ししか見えない。しかし、それは確かにパドック越しに眺められた懐かしい景色だった。
“慰霊の園”の一角には、馬の頭をかたどった石碑が置かれている。その石碑と桜並木、そして遠くの山の風景を1枚の写真に収めた。パドックを回る出走馬の姿が浮かび上がってくるような気がした。
小国博行調教師(北海道)の話
実父が上山競馬場の予想屋で、子供の頃から競馬場に遊びに行っていました。でも馬は嫌いだったんです。小学3年生の時、競馬場にあった乗馬クラブに入って馬(ポニー)に乗るようになり、だんだん慣れていきました。中学2年生の頃、友達の知り合いから小国忍調教師を紹介してもらって、厩舎の手伝いを始めました。身体が小さかったので、騎手を目指したらどうか、っていうことで。その流れで先生の養子になって、競馬学校に行きました。
デビューは1984(昭和59)年4月。それまで厩舎作業の手伝いはしていたけど、下乗り(調教での騎乗)はしていなかったので、いきなりの実戦でした。先生からは「何もしないでつかまっていればいいから」と言われましたが、怖かったですね。緊張した覚えはないですけど。初勝利はその日のうちに挙げられました。
上山の競馬は忙しかったですね。小回りで直線が短かったから、2コーナーを回って動く馬が多かった。そこからレースが忙しくなるわけです。自分もよく向正面で仕掛けて勝ちましたよ。勝つところは勝っておかないとね。それが信条みたいなものでしたし。私が騎手になった頃は、飛び抜けてスゴイ先輩はいませんでした。だから初めは自厩舎の兄弟子(白谷正美騎手)を目標にしました。兄弟子を抜かないと、自分にいい馬が回ってこないでしょう?そうそう、この人はいいなぁと思ったのは五十嵐浩司(いがらしひろじ)騎手ですかねぇ。アブミが短くて馬への当たりが柔らかかった。
上山にいた時は攻め馬やってレースで乗って、あとは遊んでいましたね。馬主さんとはよく仙台まで飲みに行きましたよ。国分町のあたりね。車で片道1時間で行けますから。飲んだら向こうで泊っちゃう。レースが終わると、よく行ったものです。
思い出の馬?ジーナフォンテンとかサンデーツヨシとかカガリスキーとかかな。ジーナフォンテンは“悪い馬”。攻め馬で落されました。でも素質はあると思いましたね(2000年にデビュー。上山で重賞を含め5連勝して中央のレースにも挑戦。後に南関東に移籍し、02年のスパーキングレディーカップ、03年のエンプレス杯を制するなどの活躍を見せた)。サンデーツヨシは乗りやすかった。騎手の言うこともよく聞いてくれました(1999年5月のデビュー戦から12月の東北サラブレッドチャンピオンまで8連勝をマーク。2000~04年は大井、岩手に在厩して走り続けた)。カガリスキーはダッシュ力があまりない。勢いをつけてスタートすると最後が持たない。だから後方から行ってまくって勝つ馬でした(1994年のデビューから97年の最後のレースまで上山に在厩。95年に水沢の東北優駿、地元の北日本オークス、樹氷賞などを制した)。
もう1頭、セントアトラスでもよく勝ちましたね。中央から新潟(地方競馬)へ行って、それから上山に来たんですが、これがまた厄介な馬で、とにかくソラを使うんです。1頭になると遊んじゃう。隣に馬がいればいいんですけどね。だからどうやって抜け出すかを考えて乗っていました。それでも通算で40勝くらいしたんじゃなかったかな(1996年に中央でデビューし3戦未勝利の後、新潟に転出。96年8月からは上山に在籍した。10歳となった2003年まで走り、地方通算93戦40勝の成績を残した)。
(場内実況の)與那覇アナウンサーに付けられた私のニックネームはモンテディオ。サッカーチームの名前ですが、“山の神”っていう意味だそうで、何度かリーディングを取っていたからそう呼んでくれたみたいです。気に入っていたとかイヤだったとか、そういうことはとくになかったですね。
上山が廃止になるなんて、考えもしなかったです。最後の年(2003年)は騎手会長でした。最終日(11月11日)は雨降りで、だんだん暗くなってね。途中でみんなに「危なかったらやめても(レースを中止にしても)いいよ」と言ったんですが、「大丈夫」というので最後の樹氷賞までやれたんです。
騎手を辞めることは頭になくて、最初は船橋に行こうと思いました。でも、移籍するには年齢制限があって行けなかった。そうしたら、道営競馬に拾ってもらいました。こっちに来てからは上山にいた時ほど勝てなくなったけど、騎手を続けられてよかったです。それで調教師にまでなったわけですからね。
板垣吉則調教師(岩手)の話
上山競馬場には父に連れられて小さいときから行っていました。父は伝統工芸(山形桐紙)の職人で、山形市内に住んでいましたが、競馬が大好きでよく行きましたよ。父が競馬をやっている間、私はそこら中に落ちていた馬券を拾って遊んでいました。でも、そこで見た騎手がカッコいいなぁと思って、もう幼稚園の頃には騎手になると決めていたんです。それしかない、一択でしたね。
父の知人が吉田(英男)調教師に私を紹介してくれました。中学校を卒業して競馬学校に入るのに、当時は公募ではなく調教師さんを通さないと入れませんでしたから。なので、厩舎で働くようになったのは配属が決まった後です。いわゆる下乗りの修行はほとんどしていません。
デビュー戦の前は緊張しましたが、レースはただ回ってきただけ。堅くなった覚えはないですね。当時、厩舎には2人の兄弟子、山中初(はじめ)さんと高木正喜(まさよし)さんがいて、先輩がいい馬に乗るのが当たり前で、私が乗るのは大抵“走らない馬”。デビュー戦もそうだったんです。初勝利まで時間(約1カ月)がかかったのも、それが一因でした。
吉田先生はリーディングトレーナー、山中さんはリーディングジョッキー。高木さんはけっこう気の悪い馬を任されて、調教で落馬することもあって、ケガが多かった。厄介な馬をやっとまともに走れるようにすると山中さんに乗り替わられるんで、ちょっとかわいそうでした。私は、自厩舎の馬だけ調教を付けていたらいつまでも先輩の下なので、他厩舎の馬の調教を手伝って乗り鞍を増やしていきました。それで結果を残し始めたら、だんだんいい馬に乗れるようになりましたね。
その頃、ヤマショウキロクという馬を頼まれました。これがクセ馬で、バカつく(逸走したり止まったりする)ので誰も乗りたがらない。それを任されて乗ったら、スピードがあって走る馬だったんです。デビュー戦(1994年6月)はぶっちぎり。オープンで活躍して、カガリスキーという同期の強い馬に何度も勝ったくらいでした。その馬で結果を出したことや、山中さんが引退したこと、ケガが多かった高木さんがなかなか勝てなくなったことなどが重なって、自分にチャンスが回ってきたわけです。
上山の馬場は1周1000メートルで断然逃げ、先行有利。でも私は、常に差して勝ってやろうと思って乗っていました。本命馬が100の能力を持っているとして、自分の馬は80しかない。じゃぁどうやって本命馬を負かすか、とかね。それでレース前はいろいろイメージトレーニングするんです。コース取り、位置取り、あとは他の騎手のクセなんかも考えて。“してやったり”と思ったレースはけっこうありましたね。
ビソウウエスタンという馬がいまして、これが440~450㎏くらいの“ちんちくりん”で、スタートがあまりうまくない。でも、競馬は上手で騎手の言うことはよく聞くし、反応がいい。この馬に中団から差して勝つことを覚えさせたら、よく走ってくれました。重賞も勝ちましたよ。
2000年、2001年とリーディングを獲って、2002年の全日本リーディングジョッキーシリーズ(大井)に出ることになったんです。ところがその1週前に落馬して鎖骨を骨折しました。でも、せっかくの大舞台なので、どうしても出たかった。痛み止めを打ったり、テーピングしたりして無理やり出場しました。2戦で争ったうちの1戦目、走る馬を引き当てて、こっちが何もしなくても勝てちゃいました。でも、冷や汗が出るほど痛くて痛くて。次の2戦目も乗っているだけでしたが5着。総合で3位でした。その反動で腕が上がらなくなって地元のレースは2週ほど休みました。落馬骨折も長く休んだのも、その時1度だけです。
そうそう、上山の調教師さんや厩務員さんは怖い人が多かったですね。今だったらパワハラって言われるような。もの凄く怖い先生と厩務員さんがいる厩舎に、すごく真面目でおとなしい騎手の人がいたんです。その人なんかは勝っても怒られていました。レースが終わって戻ってくると仁王立ちで待ち構えていて、「どうしてあんな乗り方したんだ!」なんてね。お客さんもそうでした。私も本命馬で負けた後のパドックではボロカスにヤジられました。“熱い人”が多かったなぁ。それに比べると岩手は穏やかですよ。全然違います。
場内実況の與那覇(よなは)さん?名物アナウンサーでしたよね。ジョッキー全員にニックネームを付けて実況していましたが、私は「柿ピー」。山形に“豆の板垣”というお菓子屋さんがあって、そこから取ったそうですが、私はちょっと不満でした(笑)。
上山が潰れるなんて想像もしていなくて、いきなり廃止となったときには競馬の世界から離れようと思いました。でも、岩手で4~5人受け入れてくれるっていうことで、上山の調教師さんたちから、「だったら続けてみれば」と言われて移籍しました。関本淳さんと秀幸さん(兄弟)、須田(英之)さん、長橋(秀樹)さんと一緒でした。ただ、自分が調教師になるなんて思ってもいなかったですね。今、こっちでリーディングを獲れているのは、上山時代の先輩方、元調教師さんや馬主さんがいい馬を紹介したり預けたりしてくれるおかげです。上山競馬は中央も含めて全国の馬主さんとのネットワークを作ってくれました。ありがたいなぁと思っています。
荒井友昭さん(上山KEIBAニュース)の話
上山競馬場に馬を持っていた父が、ガリ版刷りの紙面に「上山競馬ニュース」という紙名をゴム印で押して専門紙を出すようになりました。それまで上山にはそういう新聞がなかったんです。だから売れましたね。そこで会社を立ち上げ、印刷工場も作った。私は父の手伝いから始めて、その跡を継いだわけです。
紙面を編集し、本紙予想の印を付けるためには、競馬はもちろん、いろいろな仕事を勉強しなきゃならない。それには東京で“一流”に触れて修行するのが一番と思って、当時あった『ホースニュース馬』という専門紙の会社にお世話になりました。美浦トレセンで調教タイムの取り方を教わったり、東京競馬場や大井競馬場の記者席に入れてもらってレースを見たり。ちょうどトウショウボーイが走っていた頃です。あの馬は“品”がありましたね。
それで、「よし、自分も上山で本格的な競馬新聞を作ってやろう」と思い立ちました。その頃、上山の専門紙はウチの他に2紙ありましたが、初めて紙面に調教タイムを載せたんです。中央では次々に馬場に出てくる馬の番号を読む人と時計を取る人が分かれていた。でも、こっちは私1人です。朝の2時、3時から調教タイムを取る。多い時には100~150頭にもなりました。
馬の状態、調子の良し悪しは調教直後の様子に表れるんですよ。ちょっと前(脚)がゴタゴタして、「こりゃダメだな」とか。その中から「これは行けそう」という馬を見つけて「調教メモ」というコラムに仕立てました。それを目当てに新聞を買ってくれるお客さんがけっこういましたよ。
能力検定競走も全部見て、厩舎取材もして、終わったらそれを含めて紙面作り。データベースなんていうものがなかった時代で、馬柱(成績欄)ももちろん手作りです。本紙予想の印を付けて、原稿を書いて・・・。ビデオでレースが見られるようになるまではすべてナマで見ていました。そうしないと各馬の位置取りが記録できない。それを取っておかないと、次のレースの展開が予想できませんから。もちろん紙面に載せる展開図も私が作っていましたよ。活字拾いや印刷は工場で働く社員の仕事でしたが、紙面作りは何から何まで私1人でやっていたんです。
そうそう、調教師が自分のところの馬の調教タイムを聞きにきたり、ゲラを見せてくれって言ってきたりするようになりましたね。それを見て、「よし、これなら勝負できる。乗り役は○○にしよう」なんて言っていたこともありましたよ。
上山は4月から12月がシーズンだったので、この間はほとんど休みなく働きました。その代わり、競馬がない1月はまるまる休み。2月は印刷会社の社員旅行。これでたっぷり休養して、3月になるとシーズン開幕に向けての準備を始めました。これがまた大変だったんです。よそから転入してくる馬が何百頭といるので、その成績をすべて調べて馬柱の元を作らなきゃならない。『週刊競馬ブック』や『週刊馬』(ホースニュース馬が出していた週刊誌)などをかき集めて、成績欄を作る。1つでも間違いがあったらいけませんから、神経を使う仕事でした。
かつては上山で走った後に国内トップレベルのレースで活躍した馬がけっこういたんです。コーナンルビー(1980年上山でデビュー。同年末に大井に移籍し、81年の羽田盃、82年の帝王賞などに優勝)とかダイコウガルダン(栃木、笠松を経て1989年7月=現4歳時に上山に転入。東北サラブレッド大賞典や水沢の北日本マイルチャンピオンシップ南部杯で優勝。90年からは大井に在籍し、同年の東京大賞典、91年の川崎記念などを制した)とかね。
よそには行かなかったけど、セキノカツヒメっていう馬も強かったなぁ(85年の樹氷賞優勝などを含め1983年~90年に72戦して30勝2着14回3着17回を記録)。牝馬らしい切れ味があって、(場内実況の)與那覇さんが「上山の“カミソリ娘”」って言っていましたよね。
上山競馬がなくなった後も、新聞取次の会社は続けています。全国公営競馬専門紙協会というのがあって、その事務局長を仰せつかり、NARグランプリの表彰式などにも出席しています。昔なじみの編集担当者が集まる会にも毎年顔を出していますよ。父の会社を継いで専門紙の発行人になってから上山競馬が廃止になるまでが約30年。1つの仕事を30年も続ければ、それはそれで十分でしょう。やり切ったと思っています。
上山競馬場の思い出
今回、冒頭に「上山は私にとって“特別な”競馬場」と書いたのは、場内実況アナウンサーの與那覇豊和さんが思い出をたくさん作ってくれたから。上山は與那覇さんとともにあった、と言ってもいいくらいだ。
私がテレビ東京の『土曜競馬中継』(当時)で実況を始めて間もない頃、福島競馬の仕事を終えて競馬場を出ようとした時、「矢野さんですね?上山で実況している與那覇です」と声をかけられた。それまでにも何度か上山には行っていたので、聞き覚えのある声だった。「今度、上山にも来て来てくださいね」。そう言われたら行かないわけにはいかない。ただ、なかなかスケジュールが合わず、ようやくお誘いに応えられたのはその年の末、1年を締めくくる看板レース・樹氷賞の当日だった。山形新幹線(福島・山形間)が開業した後だから、1992(平成4)年のことだ。
競馬場の実況席を訪ねると、與那覇さんは大歓迎してくれた。話は尽きず、レースが終わると、「一杯やりましょう」ということになった。その日は1年最後の開催なので、いわゆる“打ち上げ”の飲み会だ。当時の私は、有馬記念が終わった後の飲み会を年末の恒例行事としていたが、たった1人で上山の実況を担当している與那覇さんには、仲間同士で盃を重ねる機会は少なかったようだ。駅近くの「イビサ」という洋食屋さん(今もかみのやま温泉駅東口で営業中)で始まった2人きりの“打ち上げ”は大いに盛り上がり、店を変えて2次会、3次会に突入。その日のうちに帰る予定だった私は、ついに與那覇さんのご自宅に泊ることになった。翌日の昼頃、酒の残る寝ぼけ眼で外を見ると、與那覇家の庭が雪で覆われていた。その雪が前日に降っていたら、無事に樹氷賞が開催できたかどうか・・・。
與那覇さんは沖縄生まれ。ひょんなことから東京の耳目社(南関東4場や金沢などで場内実況業務を請け負っている)に入社、ひょんなことから実況アナウンサーになり、上山への出張を繰り返していたところ、主催者に請われて専属になったそうだ。誰にでも気さくに声をかけ、上山にゲストを呼び込んでその輪を広げてきた。私もその1人だったわけだが、その縁から生まれたのが上山に全国のアナウンサーを集めて交代で実況を担当するイベントだった。
2000(平成12)年、手始めとして「全国競馬実況アナウンサー祭」を開催。この時はラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の宇野和男さん、ラジオ大阪『ドラマチック競馬』の濱野圭司さん、ホッカイドウ競馬の小枝佳代さん、高知競馬の橋口浩二さんが参加してくれた。小枝さんも橋口さんも、與那覇さんとの出会いをきっかけに、私が現地の実況席にお邪魔して絆を作ることができた方々だ。
この“プレ大会”がソコソコご好評をいただいたので、2001(平成13)年7月に規模を拡大して「第1回全国競馬実況アナウンサーフェスティバル」を開催した。これには、“プレ大会”の参加メンバーはもちろん、各地から総勢十数人のアナウンサーが集まった。地方競馬の馬券売り上げが低迷期を迎えていた頃で、アナウンサー仲間による“勝手連”的な応援イベントでもあった。以来、同様の催しが高知、旭川、荒尾、水沢、ばんえい帯広でも行われ、與那覇さんと私はその“仕掛け人”として各地を回った。
イベント自体がわれわれ参加者にとって楽しいものだったが、“アフターレース”がとにかく盛り上がった。なにしろ喋りを本業としている者ばかりの集いだ。どこへ行っても飲めや歌えやの大宴会が繰り広げられた。
第1回のフェスティバル開催からわずか2年後の2003(平成15)年、上山の廃止が決まり、最終日となった11月11日にも全国から多くのアナウンサー仲間が競馬場に駆けつけた。最後のレースは師走の名物だった樹氷賞。しかし、その日は晩秋で“涙雨”が降っていた。
私は実況席ではなく観客席でレースを見守った。馬場を2周するレースの中盤、各馬がスタンド前に差しかかった時、「もう2度とこの馬場を馬たちが走ることはありません、悲しい別れです」という與那覇さんの実況が聞こえた。まわりのファンが、一瞬、息を呑んだような気がした。レースが終わり、実況席に上がると、與那覇さんを取り囲んでみんなが泣いていた。
その夜もお決まりの“宴会”が開かれた。そこで小枝佳代さんが歌った「涙そうそう」は今も忘れられない。小枝さんが、これもひょんなことから競馬実況を始めることになった時、アドバイスを送ったりサポートしたりしたのが與那覇さんだった。
♪古いアルバムめくりありがとうってつぶやいたいつもいつも胸の中励ましてくれる人よ
小枝さんが與那覇さんに捧げた歌。私は号泣してしまった。
その小枝さんは、2024年2月に鬼籍に入られた。この記事を書くにあたり、與那覇さんにもインタビューしたかったのだが、数年前から体調を崩されているとのことで、叶わなかった。時の流れを痛感している。
小枝さんの「涙そうそう」に代わり、私はこの“思い出話”を與那覇さんに捧げたい。どうか快復されて、またお目にかかれますように。
喜劇競馬必勝法一発勝負と上山競馬場
伴淳三郎という俳優をご存知だろうか?戦後の日本を代表する喜劇俳優で、多くの映画やテレビドラマに出演、“ばんじゅん”という愛称で親しまれた。どこまでが台本にある台詞でどこからがアドリブなのかがわからない、それが抜群におもしろい名優だった。
その“ばんじゅん”さんが出演した作品の中に「喜劇競馬必勝法一発勝負」がある。1968年に東映が製作したもので、上山競馬場が舞台となった。実は“ばんじゅん”さんは山形県米沢市に生まれ、山形市の(尋常)小学校を卒業した人。映画の中の“ばんじゅん”さんはまさに“水を得た魚”だった。
この映画もきっかけになったのだろう。“ばんじゅん”さんは上山競馬場の看板にもなった。家族が場内で“ばんじゅんの店”を名乗って飲食店(屋台と食堂)を営み、そこにたびたび顔を見せたほか、専門紙の『上山競馬ニュース』には予想のコラムも寄稿していた。







矢野吉彦(やのよしひこ)
1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は281カ所に及ぶ(2024年末現在)。