現在の日本の競馬は北海道のばんえい競馬を除くと、サラブレッドのみで行われているが、2000年代初頭までは、純血アラブとサラブレッドの混血種であるアングロアラブ(以下アラブと表記)による競走も日本の競馬の根幹を担っていた。サラブレッドより安価で、使い減りせず、60キロ超の酷量も苦にしない丈夫な体質は主催者にも馬主にも重宝された。ところが1995年、JRAがアラブ競走を廃止すると、翌年には南関東4場も追随する。活躍の場を狭められたアラブは、生産頭数が激減。1990年代後半から衰退の一途をたどる。そんなアラブの最後の王者が、園田のワシュウジョージだった。
3歳時の1999年は全日本アラブ優駿で2着も、春の菊水賞、秋の六甲盃を制し、2冠馬に輝いた。主戦の小牧太騎手は「アラブはサラブレッド以上に血で走るので、1歳上の兄(シャインマンリー)が走ったから期待はしていたが、ここまで走るとは思わなかった」と振り返る。余談だが、ワシュウジョージと半兄シャインマンリーは、後のタマツバキ記念山陽杯(2000年)で1、2着と兄弟ワンツーを決めた。
4歳以降も、園田伝統の重賞である新春賞、兵庫大賞典、摂津盃、園田金盃を勝ち、遠征でも佐賀と金沢で各地の強豪を破り、園田の看板馬として、全国にその名を轟かせた。中でも注目は、サラブレッドをまとめて沈めた2001年の園田金盃(2400メートル)だった。
この時、対戦したサラブレッドは、1999年に始まった園田のサラブレッド競走のために入厩した4歳馬と3歳馬だった。4歳のダイトクヒテンは、3歳時に中央の若駒ステークスで後方一気の差し切りを決め大波乱を演じていた。3歳の代表格はその年の3冠競走で3、5、4着のホワイトテンションだった。それでも、1番人気はサラブレッドを差し置いて、ワシュウジョージが推され、単勝1・7倍。2000メートル以上では8戦4勝2着3回と安定感が抜群で、サラブレッドとの時計の比較でも見劣らず、時計が速くなる得意の不良馬場も後押しした。道中は後方から2周目向正面でスパートすると、2着ホワイトテンションに3馬身差をつける完勝。走破タイムの2分37秒1はコースレコードで、2009年まで、8年間破られなかった。「馬場も味方したし、サラブレッド相手でも自信はあった」と小牧騎手は目を細めた。
そんな鞍上が、次なる野望を抱いたのは中央への挑戦だった。中央では地方のアラブが出走できるレースはオールカマー(GⅡ)と、JRAが指定するオープン特別に限られていた。過去の地方アラブによる挑戦は、園田のインターロツキー(1992年テレビ愛知賞、11着)と大井のトチノミネフジ(1994年吾妻小富士オープン、11着)の2例のみ。3例目として、陣営が狙ったのは2002年9月8日、札幌競馬場の札幌日経オープン(芝2600メートル)だった。
「蹴る力が上に抜けるのではなく、前に向かうのが長所だった。ゆったりとしたストライドで芝の長丁場がいかにも、合ってそう」と小牧騎手は楽しみにしていたが、暑さで体調を崩し、挑戦は幻に終わった。「実際に走ってないので、何とも言えないけど、いい勝負になるものは持っていた」。もし順調に出走したとしても、結果は誰にも分からない。ただ、地方と中央を合わせて4300勝以上を挙げる名手にそう思わせたワシュウジョージの能力は、否定しがたいものがあった。
7歳の2003年秋から福山へ移籍も、重賞は金杯の一勝のみ。本来なら園田退厩時に種牡馬になるはずだが、風前の灯であったアラブ競馬に種牡馬への道はない。現役を続けるしかなかった。「これだけ走ってくれたのに、種牡馬にできないことが申し訳なくて、何度も謝った」。園田時代の曽和直栄調教師は当時の心境を語った。
2006年2月、休養先で急死。その血は残せなかったが、サラブレッドにも勝った最後のアラブの王者として、その雄姿は関係者にもファンにも深く刻まれている。(年齢は現表記)
提供:兵庫県競馬組合





松浦渉(まつうらわたる)
1968年大阪府出身。
重工メーカーで10年勤務。その後は、高知競馬専門紙と日刊スポーツ(大阪)で競馬記者歴25年。2025年4月より、フリーライターとして活動を始めた。