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ハルウララに感謝を込めて


高知競馬の未来を繋いだ奇跡の未勝利馬

ミラクルなリレーが生んだハルウララフィーバー

かつて、高知競馬は潰れかけていた。しかし携わる人々は「なんとしても競馬を続けたい」とファイティングポーズを取った。熱意が官を動かしたのか、高知県と高知市は88億円の累積赤字を清算した。そのかわりに、2003年度からの高知競馬は、収入の範囲内に支出を抑える出来高払い方式で運営されることが決定。3カ月ごとに収支を精査し“赤字が出れば即廃止”という条件の下、再スタートを切ったのだが……。4月の収支は、いきなり約1千万円の赤字だった。

もうあとがない。1994年から高知競馬の実況を担う橋口浩二アナウンサーは、賞金や出走手当、人件費等を削らなくてはならない出来高払い方式の始まりを、事実上の“廃止宣告”と捉えていた。橋口さんの脳内に、緊急事態を告げるサイレンが鳴り響く。

――どうしたらこの競馬場を守ることができるのか。

まずはメディアと連携して、連勝街道を突き進む芦毛の男馬・イブキライズアップを猛アピールした。その甲斐あって、5月の売上はアップした。

同時期に橋口さんが注目したのが、宗石大厩舎に所属するハルウララだった。1998年、2歳の冬に高知でデビューして以降、一度も勝ったことがない7歳牝馬である。ゴールの瞬間に実況席から「ハルウララ、◯○戦目の初勝利です!」と称えることができないまま、ひたすら負け続けている。ハルウララをどう扱うべきか。橋口さんは思案をめぐらせた。

――ハルウララの話をするなら、あの人しかいない。

2003年6月、高知の路地裏55番街にある居酒屋で。橋口さんは高知新聞の石井研記者に向かって、思わせぶりにつぶやいた。

「いつになったら勝つんだ、ハルウララ」

石井記者は高知新聞に「高知競馬という仕事」という気合いの入ったルポルタージュを連載する記者のひとりだった。橋口さんは、石井記者の物事の捉え方に惹かれていた。だからこそ託した。

2003年6月13日、高知新聞の夕刊に記事が掲載された。見出しは「1回ぐらい、勝とうな」。それはハルウララを担当する藤原健祐厩務員(当時)が呟いた言葉だった。石井記者は、馬と人のぬくもりある日常を描いた。

「こいつは今まで、二着が四回もあるんですよ。ハナ差の二着もあるんですよ。雨でコースが田んぼになったとき、後ろから突っ込んできますよ。こいつが二着に突っ込んできたら、万馬券が出ますよ。競馬場が揺れますよ。こいつは究極の穴馬やと思う」(高知新聞の記事から藤原厩務員の言葉を抜粋)

橋口さんはこう振り返る。

「僕の思っていたよりも、とんでもなくいい文章が上がりましてね。石井記者にお話して、本当によかったなって思いました。記事を読んだ人から、『こんなふうに日々を送っている人馬がいるんですね』『涙が出た』っていう反響が結構あったそうです。佐藤邦昭カメラマンが撮った写真も含めて、あの記事を作った人たちって凄いです」

この記事を“原作”と表現する橋口さんは、のちに起きたブームにも影響を与えたと考えている。

「この原作が根本にあるからこそ、なにか面白い変なものを見るっていうブームではなく、ひとりひとりの心にストンと落ちてくる物語になったんじゃないかと思います」

高知県競馬組合の広報を担当していた吉田昌史さんは、とびきりの記事に背中を押されて「がんばれ!! 88戦88敗 ハルウララ号」というニュースリリースを作成し、40社ものメディアにファックスを送信した。

2003年7月23日、毎日新聞の全国版に90連敗中の負け馬・ハルウララの記事が掲載された。その日の午前7時、競馬組合の事務所の電話が鳴った。受話器を取ったのは、すでに出勤していた前田英博管理者(当時)。フジテレビの情報番組『とくダネ!』のスタッフが「毎日新聞の記事を元にハルウララを取り上げたいので、写真を提供してほしい」と言うのだ。ちょうど徹夜で仕事をしていた組合職員の松本太一さんが、自分で撮影したハルウララの写真をメールで送信した。午前8時、小倉智昭アナウンサーは番組冒頭のフリートークのコーナーで、ハルウララのプロフィールを軽妙な語り口で伝えた。小倉アナウンサーは競馬番組のレース実況や司会進行のエキスパートであった。

なんともミラクルなバトンリレーは、まさかの“ハルウララフィーバー”をもたらした。出走の度にメディアが大挙して押し寄せる。県内外から多くのファンが詰めかける。ハルウララの単勝馬券は「当たらない」ということで、交通安全のお守りとして飛ぶように売れた。

ハルウララ関連馬券の看板および窓口

2003年12月14日。5074人の観衆が見守るなか、単勝1.8倍の1番人気に推されたハルウララは、9着に敗れて100連敗を達成した。単勝馬券の売上301万円は、高知競馬のレコードだった。

2003年12月14日『ハルウララ100戦記念特別』

ハルウララの鞍上に武豊という奇跡

2004年1月2日、8歳になったハルウララは8256人の観客に見守られながら7着に敗れて101連敗。単勝売上は591万円で、またもレコード更新。

そして驚きのニュースが日本列島を駆けめぐる。JRAの武豊騎手が、ハルウララに騎乗するというのだ。武騎手は高知競馬場で行われる黒船賞に、ノボトゥルーで参戦を予定していた。そこで競馬組合が「当日の最終レースに出走するハルウララにも騎乗してもらえませんか?」とオファーを出したところ、武騎手は快諾したというのである。

日本を代表する名手と、負け続けて愛される地方の馬。異色タッグのインパクトは絶大で、小泉純一郎首相(当時)が国会の予算委員会で「ハルウララ、一回ぐらい勝ってほしいなと思っているんです」と語るほど。メディアはますますヒートアップした。

ハルウララの名付け親でもある宗石調教師は言った。

「ハルウララに関して何度も言ってきたことなんですが、奇跡が、ありえないことが起きようとしている。ただ、ハルウララの体調管理に、大きなプレッシャーがかかっているのもたしかです」

2004年3月22日、黒船賞当日。徹夜組を含めて3000人以上が開門待ちの大行列を作った。“ハルウララ単勝馬券購入専用窓口”には100メートルに及ぼうかという長蛇の列がいくつも連なり、グッズも飛ぶように売れた。午後1時半には入場者数が歴代最高の1万3000人に到達。入場制限がかかった。現地だけでなく、全国各地の競馬場や場外馬券売り場に、ハルウララの単勝を求める人々が列をなした。

2004年3月22日 『YSダービージョッキー特別』当日の様子とハルウララ単勝馬券

黒船賞はディバインシルバー&安藤勝己騎手が逃げ切り勝ち。そして迎えた最終レース『YSダービージョッキー特別』。ハルウララはどうにも行きっぷりが悪く、10着に敗れて106連敗となった。ところが武騎手は、ハルウララと共に“負けたけどウイニングラン”を実行した。

「ウララ~、よくがんばったよ~!」

「ユタカ~、ありがとう~!!」

ピンクの勝負服をまとう武騎手と泥んこになったハルウララに、雨上がりの西日が降りそそぐ。まるでおとぎ話のような光景。その種を蒔いた橋口さんは、実況席で言った。

「ハルウララ今日も初勝利はなりませんでしたが、武豊騎手と夢を見たYSダービージョッキー特別、確定までお待ちください」

武騎手は記者会見でこう話した。

「ハルウララは、まったく走らないわけではないですね。ちょっと脚が遅いだけです(笑)」

この日の総売上は、高知競馬レコードの8億6904万2500円。YSダービージョッキー特別の売上5億1162万5900円は、1レース単体の売上として高知競馬レコード。ハルウララの単勝だけで、★1億2175万円★も売れた。

2003年度の高知競馬の収支は、9200万円の黒字。ハルウララが、高知競馬に12年ぶりの黒字をもたらしたのだ。

結果は10着に敗れたがウイニングランを行った武豊騎手とハルウララ

ハルウララが繋いだ高知競馬の未来

バブル崩壊後の長引く不況を背景に“負け組の星”として脚光を浴び、社会現象を起こしたハルウララ。負けても負けても走り続ける姿に自分を重ね合わせ、元気づけられるという人が全国にいた。ハルウララの出走レースで他馬の単勝を狙い、美味しい配当にありついてほくそ笑む馬券師もいれば、「弱い馬が人気者になるなんて」と眉をひそめる人もいた。受け止め方は今も様々だ。

あらためて確認しておきたい歴史がある。ハルウララがレースを走ったのは、2004年8月3日の5着が最後だった。それから高知競馬の経営状況は悪化の一途をたどり、下級クラスの1着賞金は9万円にまで削られた。2008年度の売上は約38億円(1日あたり約4千万円)にまで落ち込んだ。そんなどん底にありながらもギリギリ踏ん張ることができたのは、ほかでもない“ハルウララ貯金”のおかげだ。その後、2009年7月に通年ナイター競馬『夜さ恋ナイター』の開幕にこぎつけたことが高知競馬の復活に繋がったわけだが、もしハルウララ貯金がなければ、とてもじゃないけどナイターまで持ちこたえられなかっただろう。

ハルウララを一目見ようと初めて競馬場へ足を運んだことがきっかけで、やがて筋金入りの常連と化した人たちの存在も特筆したい。20年以上の時を経た今も馬券を握りしめ、一喜一憂しながらレースを楽しみ、競馬場をまるごと“箱推し”する人々は、どれほど存続を後押ししたことだろう。

ラストランとなった2004年8月3日『ハルウララ・チャレンジカップ』

近年、新たなムーブメントが発生した。競走馬を擬人化したゲームアプリ『ウマ娘 プリティーダービー』に、ハルウララをモチーフとした頑張り屋さんの女の子が登場。2025年6月に英語版のウマ娘の配信が始まると、海外でも絶大な人気を集めた。ハルウララが繋養される千葉県御宿町のマーサファームには、海外からはるばる会いに訪れる猛者も現れた。また、ハルウララ宛ての生牧草バンク(引退馬へのクラウドギフティング)が大フィーバーを起こした。なんと国内外から2トンを超える生牧草が贈られたという。最後の最後まで伝説を作ったのだ。

2025年9月9日、ハルウララは天に召された。29歳だった。マーサファームの馬房にも、高知競馬場に設けられた献花台にも、手向けの花があふれた。

献花台にはハルウララが着けていたキュートなメンコが飾られた。宗石調教師が縫い付けたというキティちゃんのアップリケを見て、懐かしさがこみ上げた。あの頃、潰れかけていた高知競馬は大逆転を果たして、売上を伸ばし続けている。2024年度の売上は約999億円余り(1日あたり約9億2千500万円)。2025年度は、もしかすると1000億円を突破するかもしれない。ハルウララと、ハルウララを取り巻く人たちに感謝を伝えたい。高知競馬の未来を繋いでくれてありがとう。すったもんだを乗り越えて、マーサファームでのびのびと幸せそうに暮らす姿を見せてくれてありがとう。

通算成績113戦113敗。その小さな体で幾度も奇跡を起こした伝説の未勝利馬は、これからも愛され続ける。


井上オークス

写真高知県競馬組合、井上オークス、斎藤修、いちかんぽ