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第7回・中津競馬場編


矢野吉彦

2026.1.7 (水)

中津競馬場は2001(平成13)年3月22日の開催を最後に廃止された。その詳細についての説明は他に譲るとして、これ以降、多くの競馬場が次々に姿を消していった。地方競馬に“冬の時代”が到来したことを告げてしまった中津の跡地は、今、どうなっているのか?

90度回転した馬場

中津競馬場は、JR日豊本線中津駅の南、耶馬溪(やばけい)方面に向かうバスで20分ほど行ったところにあった。その周辺は大貞公園という古くからの桜の名所。競馬が行われていた頃は県道697号線を走るバスしか走っていなかったが、今はそれに加えて市民病院などを経由するコミュニティバスの路線も開設された。

大貞公園は競馬場跡地の東側にある薦(こも)神社の神苑とのこと。もともとこのあたりには、はるか昔、農業用の溜め池が多く作られた。その池に生えるマコモは、神様がお休みになるための枕とされ、それをご神体にして薦神社が祀られたそうだ。

現地を訪れたのは2025(令和7)年5月。探訪はまず薦神社に隣接する御澄池(みすみいけ)のほとりから始めた。

 実は、旧競馬法制定後の1924(大正13)年に初めて中津地方競馬が行われた時、その楕円形の馬場は東西方向が長くなっていた。それは薦神社の御澄池と西側の大池に挟まれたところにあって、数年後には90度方向を変え、南北方向に細長い形で新設された。図1~3はその変遷がわかる地形図だ。

内馬場だった場所は

御澄池を左に見ながら競馬場跡地の方向へ歩く。数分でかつての馬場の1、2コーナー付近に着いた。目の前に見えてきたのが、かつて内馬場北側だったところに広がる池。その西側は芝生の広場になっている。

広場脇に立つ案内板を見て、オッと声を上げてしまった。そこが「馬場池周辺広場」と表記されていたからだ。池の周りが馬場だったことを示す名前で、競馬場があったことの名残と言っていい。

先に書いたように、この池の周りに最初に設けられた馬場は、東を御澄池、西を大池に挟まれていた。当時の規則により、地方競馬を開催できる競馬場は1周800メートル以上の馬場を擁すること、と定められたため、それにあわせて造成されたものだ。とはいえ、その跡にある池と馬場池周辺広場を取り囲んだだけで、1周800メートルの馬場を造れたとは思えない。実際にはもっと小回りの馬場だったのではないか?

それはさておき、その馬場を90度回転させて新しい競馬場を作ったのは、規則が改正されて1000メートル以上の馬場の設置が求められたから。以後、そこでの競馬が、戦争による中断はあったものの、廃止されるまで続くことになる。

内馬場だったところの北半分には、広場のほか、幼児保育施設の大貞こども園、食品スーパーの新鮮市場大貞店、ドラッグストアのコスモス大貞店が立ち並んでいる。

南半分にもホームセンターのグッデイ中津大貞店があるが、ひときわ目立っていたのはソーラーパネルだった。競馬場の跡地は平坦でそこそこ広く、それを設置するのに最適な場所なのだろう。

スタンド、厩舎は総合運動公園に

 ソーラーパネルの南側も広場として整備されていた。そのあたりが競馬場の4コーナー付近。遠くの山の姿にはなんとなく見覚えがあった。

広場の北西側には、新しく整備された道路を挟んで立派な体育館がそびえ立っている。2008(平成10)年にオープンしたダイハツ九州アリーナで、先の広場は東多目的広場という“サブグラウンド”のような場所だ。

実は、競馬場のスタンドや厩舎が立ち並んでいたところは、ダイハツ九州スポーツパーク大貞と称する総合運動公園に生まれ変わった。

アリーナの西側には硬式野球場のダイハツ九州スタジアムも建設された。かつてはそのあたりまでが厩舎地区だったようだ。野球場は2015(平成27)年の開場で、プロ野球の公式戦が開催できる規格を満たしている。

競馬場の跡地を総合運動公園に転用したというのは、栃木・宇都宮と同じだ。宇都宮には、かつてそこに馬場があったことをイメージできる半円状の道があったが、中津にはそういうところが一切ない。

唯一の名残は馬場池周辺広場という広場の名前。ただ、馬場の文字は含まれていても、それが競馬場の馬場にちなんでいるのか、神社の馬場を指すものなのか、それとも人名に由来するものなのかはわからないだろう。そう遠くない将来、おそらく中津競馬場の存在は人々の記憶から消えてなくなってしまうに違いない。そんな思いを抱きながら、駅へ帰るために最寄りの総合体育館入口バス停に向かった。

耶馬溪線廃線跡

競馬場跡地とバス停がある県道との間の道は、競馬を見に行った時に歩いた道だ。

県道は1975(昭和50)年に廃止された大分交通耶馬溪線の廃線跡に沿って伸びている。鉄道が通っていた頃のことは知る由もないが、当時の大貞公園という駅は“競馬場前駅”でもあったわけだ。

私が初めて中津競馬場でレース観戦したのは、今から40年ほど前のこと。行き帰りには無料の送迎バスを利用したと記憶している。しかし、それは競馬人気が低迷して客足が遠のくと廃止されてしまい、以後は大貞公園のバス停から路線バスに乗って中津駅に戻っていた。そのバス停は今も変わらずほぼ同じ場所にある。付近の県道に沿って延びている側道は耶馬溪線の廃線跡。見覚えのあるそのあたりの景色を眺めているうちに中津駅行きのバスが到着。もう2度とここを訪れることはないだろうと思いながらバスに乗りこんだ。

県道と総合体育館入口バス停。道の先が中津市中心部方向。バス停の左側に伸びる道が鉄道廃線跡

空中写真で見えた“スジ”

それからしばらく経ってのこと。現地で撮影した写真を整理しながら地図や空中写真を眺めていると、ひょっとしたらこれは馬場の名残かもしれない、と思わせるものを発見した。Googleマップの空中写真で、1、2コーナーの跡のような“スジ”を見つけたのだ。こうなったらもう1度“現場”へ行くしかない。先の探訪から3カ月後、猛暑の8月に再び跡地を目指した。

空中写真の“スジ”は、馬場池周辺広場の向かい側、中津市大幡コミュニティセンターと駐車場などを包み込むように伸びている。“現場”に行ってみると、そこには土地の境界線に建つ塀があった。

そして、同センター東隣の住宅の裏手部分は古びたブロック塀になっている。コミュニティセンターの建物も住宅も比較的新しい。競馬場廃止後に建てられたというのは明らかだ。それに比べて、ブロック塀はかなり年季が入っている。これこそ、馬場の外側にあった塀ではないか?

コミュニティセンター東側の住宅裏。競馬場の2コーナーに沿って設けられた古いブロック塀が今も残っていた

塀の“外側”に建つ民家の庭が畑になっていて、住人と思われる男性が作業をしていた。男性に「このブロック塀は競馬場の跡ですか?」と尋ねると「そのとおり」との答が返ってきた。やはり、空中写真で見つけた“スジ”は競馬場の名残をとどめる塀で、ブロック塀は競馬場の遺跡と言ってもいいものだった。

以下は男性の話。塀は今、道路のところで途絶えているが、かつては2コーナーから向正面にかけて長く伸びていた。競馬場廃止後、塀の“内側”がコミュニティセンターと住宅になった。住宅は跡地に道路を新設する際、立ち退きを余儀なくされたお宅が“代わりの土地”に新築したものだ。

なんだか“お宝”を発見したような気分になった。とはいえ、そのブロック塀も、未来永劫に残るものではない。それが取り壊されるとき、中津競馬場の跡形はすべてなくなってしまうのだろう。

有馬澄男調教師(兵庫)の話

私の生まれは宮崎県の都城です。実家は農家でしたが、私は畳屋になろうか、と思っていました。まわりに馬や牛の牧場がけっこうあって、とある牧場の方から、騎手になることを勧められたんです。身体が小さかったものでね。近所の散髪屋さんが当時園田の騎手だった花村(通春=みちはる)さんの実家で、騎手ってスゴイなぁ、という思いがあったので、目指すことにしました。

ところが家族、とくにおばあちゃんは競馬に対してあまりいい印象を持っていなかったので反対されました。それを押し切って、最初は花村さんのいる園田に行くことを考えましたが、視力の関係で難しいと知ったんです。子供の頃、遊んでいるときに竹で突かれて片方の目を痛めましてね。それで、牧場の方と繋がりがあった中津の鋤田(嵩=たかし)調教師にお世話になることになりました。中学3年の3学期に中津に転校して下乗りを初め、中学を卒業して栃木の騎手学校に入ったわけです。

デビュー当時のあこがれだったのは高砂(たかすな)さんでした。なにしろ姿勢、フォームがよかった。それと展開の読み。これが絶妙でした。高砂さんを追い越すことが目標になりましたね。

中津には、走るときは走るけど、ひとクセもふたクセもある乗り難しい馬がけっこういました。自分の勝ち鞍が増えると、そういう馬を頼まれるようになるんです。馬主さんも持ち馬を勝たせたいですから。こっちは、クセがあって厄介だと思っても選り好みできない。逆にプライドみたいなものがありますから、しょうがない、「乗ります」となる。クセを承知の上で少々強引なレースもしましたよ。それで制裁を食らったり、騎乗停止になったこともありました。高砂さんにもそういうことがあったんじゃないですか。

そんな中で、ラリーエースという馬は忘れられないですね。ゴール前で隣の馬に噛みつきに行って、その隙を突かれて2着に負けたことがありました。このレースのパトロールビデオが騎手学校の教材になったほどです。馬だけじゃなくて、厩務員さんが跨がろうとするときもその足に噛みつこうとする。だから、満足に運動もさせられない。でも、走るんですよ(1991年のアラブチャンピオン、アラブ大賞典で優勝)。レースではなるべく他の馬との間隔を開けるようにしました。でも、ゴール前になるとそうできないこともあるでしょう?ちょっと手綱を緩めると噛みつきに行く。神経を使いましたね。

私が心がけたのは、相手をよく知る、予想紙をよく見る、ということです。中津は小回りだったので、まずゲートで出遅れないようにはしましたが、いつもいいスタートが切れるとは限らない。ハッキリ言って自信もありませんでした。そこで、出遅れたらどうするかも考えておく。レースではいろんなことが起きますから、ここでこうなったらこうしようと、何通りもシミュレーションするんです。それには、自分の馬はもちろん、相手の馬の特徴とか最近のレースぶりとか、いろいろ頭に入れておく必要があります。そのために予想紙をよく見るわけです。

現役騎手時代の有馬澄男氏

中津が廃止になりそうだというときには、デモや署名活動もやりましたし、市役所にも(存続の)嘆願に行きました。でも、結局廃止になってしまった。私は騎手を続けたいと思いましたが、九州は離れたかった。大井に行くことも考えましたが、妻の兄が兵庫県警にいて、知り合いが近くにいたほうがいいだろうと思って園田に移ることにしたんです。ところがその頃の兵庫では、移籍するのに1年間の厩舎勤めが求められました。そこでいったん騎手免許を返上して1年辛抱して、それから再デビューすることができました。

でもね、調教中に馬に蹴られて足の関節を痛めてしまったんです。それ以来、右足と左足で太ももの筋肉の付き方が変わりました。バランスがまるで違う。馬をコントロールするのが難しくなって、かかってしまうことが多くなり、当然、結果も出ません。中津にいた頃のようには乗れなくなり、ずいぶん悩みました。

ちょうどその頃、他場から来た者は調教師にさせないと言っていたのが人材不足で方針が変わり、試験を受けることにしました。騎手引退を決めたわけです。もし、園田で馬に蹴られていなかったらどうなっていたか・・・。今でも悔しいと思うことがありますよ。

もっと言えば、中津競馬が続いていたら、なんですよね。もちろん、中津にいたら順風満帆だったかどうかはわかりませんけどね。

石川浩文調教師(佐賀)の話

私が騎手になるキッカケを作ってくれたのは、中学校(大分市)の担任の先生でした。絵の先生で、福岡で個展を開くこともあったんですが、その帰りの電車の中で中津競馬の「騎手募集」という広告を見たそうです。それで先生が中津から関係者を招いて就職説明会みたいなものをやった。中村清先生(調教師)と獣医さん、それに地全協の駐在員の方が来られて、いろいろお話を伺って、中村先生からお誘いを受けたんです。それまでは、弁護士とか建築設計士とか、そういう仕事に就こうと思っていて、騎手という仕事はまったく知りませんでした。でも、父から「せっかく誘っていただいたんだから目指してみろ」と言われて、中村先生のところでお世話になることにしました。先生は春木(大阪)競馬のご出身で、そこがなくなって中津に移ってこられた方です。

下乗り(馬の世話や調教の手伝い)をしながら、騎手学校の試験を受けたんですが、なかなか受からなかった。やっと受かって免許を取って、1981(昭和56)年にデビューしました。1963(昭和38)年の早生まれなので、19歳になる年、っていうことですよね。もっと早くデビューする人もいますから、私は遅いほうでした。

下乗りからやっていたので、初戦で緊張したという覚えはなく、その日のうちに初勝利も挙げられました。いろんな方にかわいがってもらって乗り鞍も多く、中津時代はまぁ順調に行っていたと思います。

私がデビューした頃の中津には、手本になる先輩が大勢いました。中でも小田部磨留男さん、高砂(たかすな)哲二さん、有馬澄男さん、矢野久美さんですね。それぞれタイプが違いました。

小田部さん(女性騎手として名を馳せた小田部雪さんの父)は先行逃げ切り。前に行ったら抜かせない。高砂さんは華麗で繊細。キレイなレースをする方でした。そうそう、高砂さんには「隣の馬の鼻息を感じろ」と言われたことがあります。それによって余力があるのか、もう伸びないのか、感じ取れ、っていうことでしょうね。私もそれを感じようとしましたが、これは難しい。私は高砂さんのようにはなれないなと思いました。有馬さんはまだ若くて、ちょっと強引なところもあった。よくコース取りなどでやり合いましたね。矢野さんは追い込みが得意。私が目指したのは有馬さんと矢野さんを合わせたようなスタイルでした。とにかく1人誰かが抜きん出ているという競馬場ではなく、いい教科書がいっぱいありました。

中津の馬場は幅が狭くてコーナーがきつかった。とくに1、2コーナーのカーブですね。それと、他の競馬場とは違って、砂の厚さが内も外もほぼ同じだったので、内を開けずにラチ沿いを先行したほうが断然有利。外に膨らんだらダメでした。

思い出の馬というと、トモエムールですね。今で言う3歳の秋(1995年11月)に道営から入ってきて大活躍(1996年の中津記念、同年と翌年の中津王冠、1997年と翌年の中津大賞典を制覇)した馬だったんですが、1998年の夏からなかなか勝てなくなって、2000年4月からのクラス編成ではC級にまで降格することになっていました。でもその前の3月に重賞(サラブレッドチャンピオン=2300メートル)の出走メンバーに入ったんです。私には他にも乗れる馬がいて、どれも人気になる馬でしたが、「よし、この馬でやってやろう」とトモエムールを選びました。あえて挑戦するっていう感じでね。もともと持久力はある馬だったので、調教を倍に増やしてレースに臨みました。そうしたら見事に先行逃げ切りで優勝。他の騎手はナメていたんだろうと思いますよ。もう格下の馬だから、いつか捕まるってね。勝ったら厩務員さんが泣いていました。

今だから話せる失敗談ですか?ゲートを出た後、1完歩目で止まってしまって、まったく動かなくなった馬がいましたね。他の馬が1周回ってゴールしてからトボトボ歩き出した。つまりは周回遅れです。そんなことになるとは思っていませんでしたから、まぁビックリでした。

現役時代の石川浩文氏

中津の廃止は、「なんで?」と思うほど急な話でしたが、みんなの就職先を探さなきゃいけないということで、全国を回りました。自分のことは最後。ただ、なかなか決まらなくて、荒尾に行ってダメと言われたときには妻と泣きながら帰ってきました。最後に佐賀の山下(定文)先生が受け入れてくださった。矢野(久美)先生も佐賀に移りましたが、一緒にではなく、先生は私より後に決まったんです。とにかく佐賀が受け入れてくれたので、仕事を続けられると思ってホッとしました。ただ初めのうちは“外様”ですからね。周りの目が中津にいたときとは全然違いましたね。

佐賀は内の砂が厚いのでみんな外を回る。そこに山口(勲)さんがいた。山口さんが乗る馬はベンツ。私の馬は軽トラック。なので、内をすくって勝つことを狙ったものです。それができたときは“してやったり”でしたよ。

若い人に伝えたいのは“自分の型を貫く”ということですね。私はとにかく“叩いて追う”というスタイルでしたが、それは、中津にいろんな教科書があったからこそ学べたことです。中津競馬を忘れないでくださいね。

中津競馬の思い出

中津競馬で思い出すのは、女性アナウンサーによる場内実況だ。その昔、益田や荒尾などの場内実況は従事員の女性が担当していた。中津もその1つでとくに珍しくはなかったが、他とはちょっと違う味わいがあった。それは、地元の訛りが強かったからだ。

今は消えつつあるものの、九州北部には「せ」を「しぇ」と発音する訛りがあった。そのため、中津あたりを走る国鉄(現JR)に乗ると、「この列車はニッポウホンシェン(日豊本線)上り、普通列車のシモノシェキ(下関)行きです」なんていう車内アナウンスをたびたび耳にしていた。そういうふうに発音していたのは決まって年配の車掌さん。それを中津競馬場でも聴けたのだ。

「スタートしました!さぁ各馬、シェントウ(先頭)争いであります」

「第4コーナーをカーブしまして、いよいよ最後のチョクシェン(直線)コースに入ります」

まさに中津競馬ならでは。ローカル色にあふれ、馬券がハズレても癒やされるような実況だった。数人の従事員さんが交代で担当されていたが、その中に「ちびまる子ちゃん」の初代まる子役声優だった故・TARAKOさんによく似た喋り方の女性がいらっしゃった。「せ」が「しぇ」になる訛りがあったので、余計に似ているような気になったのだろう。

場内には場立ちの予想屋さんもいた。ある日のレース。断然の本命馬が、大きく出遅れながらも3コーナーあたりからひとまくりして勝ち、馬券はガチガチの堅い決着となった。レース後、1人の予想屋さんがこんなことを言っていた。

「オレはあの馬(本命馬)が初めから先頭に立って、そのまんま勝つと予想していた。それが出遅れて後ろから。馬券は当たったけど、予想が当たったとは言えん!」

「どうだ、やっぱりあの馬は強かっただろう?」とは言わない正直さ。中津にこの人あり、と思った。

中津競馬の末期に行われていたビッグイベントが卑弥呼杯。女性騎手限定の招待競走で、地方だけでなく中央の騎手も参戦していた。卑弥呼杯は12月の開催だったが、あるとき、ホッカイドウ競馬の実況を担当されていた小枝佳代さんが、どういうわけかは忘れたが中津に呼ばれ、従事員さんに代わって喋ることになった。その小枝さんと入れ替わりに、留守番役の太田裕士アナウンサーとともに門別競馬の実況を担当したのがこの私。小枝さんが亡くなって2年近くが経ち、それは遠い昔の思い出になってしまった。

1999(平成11)年・第3回卑弥呼杯開催日の様子

中津競馬が廃止されたのは、馬券売上が減少の一途をたどっていたさなか。1988(昭和63)年3月末に和歌山・紀三井寺競馬が廃止されて以来のことだった。本編に書いたように、その経緯についての説明は他に譲るが、ついにこういう事態に至ってしまったか、と思ったことを覚えている。それからしばらく、ドミノ倒しのように多くの地方競馬場が歴史の幕を下ろした。振り返れば、ローカル色豊かで昔ながらの雰囲気が漂っていた競馬場ほど、当時の流れに逆らうことはできなかったようだ。現存する競馬場がそのような危機に再び襲われることがないよう、祈るばかり。競馬ファンのみなさんには、末永く馬券を買って支えていただくよう、心からお願いいたします。

矢野吉彦

写真 矢野吉彦、NAR

矢野吉彦(やのよしひこ)

1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は286カ所に及ぶ(2025年末現在)。