石川県金沢競馬場。近年、天災の被害が続いているが、記憶に新しいのは2025年8月7日の大水害だ。馬の脚がすべて浸る高さまで浸水。開催再開まで1カ月を要した。2024年元日の能登半島沖地震でもスタンドが被災。しばらく他場の場外発売中止(本場は当時冬季休催中)を余儀なくされた。
そんな状況に心を痛めている元関係者がいる。最多勝騎手に6度輝き、2003年には驚異の連対率6割超えのレジェンド渡辺壮だ。引退から20年が経つが、競馬への思いは今も熱い。「夏からナイターも始まったし、みんなで乗り越えて欲しい」と古巣にエールを送る。
渡辺の騎手人生は1985年から2005年までの21年。その間、水沢のダービーグランプリを制して地方3歳の頂点に導いたミスタールドルフ、1996年の年度代表馬ハヤテサカエオー、5戦全勝で中央のスプリングSに挑んだゴルデンコークなど幾多の名馬に騎乗した。その名手に「レースで勝った時はうれしい以上にホッとした」と振り返らせるほどの癖馬がいた。渡辺にとって最多となる重賞8勝をもたらしたホシオーだった。
7歳の癖馬が金沢に来たのは2003年の秋。中央では45戦6勝のオープン馬だった。「中央の騎手に聞くと、乗り手に歯向かうし、手に負えない」。レースを見ても、後方待機から直線勝負ばかり。恐る恐る乗っているのが伝わってきた。到着後、実際の姿を見ると左目が白内障で、右前脚に屈腱炎の兆候も見られた。前途多難が予想されたが、松原正文調教師の懸命の立て直しで、移籍初年は重賞の北國王冠、中日杯を含む3戦3勝。元中央オープンの看板は伊達ではなく、中日杯は後続を大差で下し、力の違いで年度代表馬に選出された。ただ、折り合い難は中央時と変わりはなかった。
翌2004年は、金沢の冬季休催が明ける3月半ばまで笠松に滞在し、笠松・白銀争覇→園田・六甲盃→名古屋・マイル争覇というローテが決まった。輸送のない笠松の初戦こそ勝ったが、渡辺はまだ半信半疑だった。六甲盃こそ真価を問われる一戦だった。「園田は金沢や笠松以上に相手が強い。輸送も心配」。その言葉通り、六甲盃出走馬12頭を見ると、前年の1、2着馬ホクザンフィ―ルドとロードバクシンの地元勢2頭を筆頭に、ホシオーも含め重賞勝ち馬5頭というハイレベルな顔ぶれだった。
心配された輸送は10日前に園田入りし、環境に慣れさせると、当日は483キロと前走の体重を維持できた。レースは折り合いを欠きながら中団を追走。向正面でも外へ出せない。ホクザンフィールドが外からスムーズに上がっていくのと対照的に内を進まざるを得なかった。ただし渡辺は冷静だった。「アウェイの1番人気だし、マークは厳しくて当然。内は砂が深いと聞いていたが、この日はそうでもなかった」。迷いなく4角で最内を突いた。直線は力強く伸びると、ゴールではホクザンフィ―ルドの強襲をしのいだ。実況・吉田勝彦アナの「内からホシオーが抜けた。勝ったのはホシオー、やっぱりか」の絶叫が場内に響いた。「揉まれた経験がなかったのに、怯まなかった。強かった」。レース前は不安もあった渡辺だが、ホシオーの底力を見た思いだった。
その後も、金沢ではレースで折り合い難を見せながらも無敵を続け、中央勢相手の白山大賞典では、後にGⅠ(JpnⅠも含む)を5勝するタイムパラドックスの3着に善戦。ハギノハイグレイドやレマーズガールの中央勢、笠松の雄ミツアキサイレンスには先着し、中央在籍時よりも進化を遂げていることを証明。2004年も前年に続き年度代表馬に輝いた。
2005年春の百万石賞で故障を発症し、翌年に引退。引退式では前年の調教中での事故から復帰を目指し調整中だった渡辺が騎乗した。ファンは名コンビの最後の雄姿に喝采をあげた。地方での成績は15戦13勝だった。
引退後は乗馬に転向したホシオーだが、その後、調教師を引退した松原師が新潟県胎内市に開業した引退馬が余生を過ごす「松原ステーブルス」で引き取られた。天寿を全うしたのは2023年。27歳だった。「ホシオーとはいつも我慢比べ。いくら折り合いを欠いても、最後は伸びた。本当に強い馬でした」。渡辺は握っていた手綱の感触を思い出すように、自らの手を見つめていた。(馬齢は現表記)
提供:兵庫県競馬組合





松浦渉(まつうらわたる)
1968年大阪府出身。
重工メーカーで10年勤務。その後は、高知競馬専門紙と日刊スポーツ(大阪)で競馬記者歴25年。2025年4月より、フリーライターとして活動を始めた。