全国12の都道県、15の競馬場で開催されている地方競馬。それらはいつ頃始まり、どのような歴史を積み重ねてきたのか?当連載では各競馬場の始まりにスポットを当て、その変遷を紐解いてみる。
本題に入る前に
地方競馬の歴史を余すところなく書き記すことは難しい。
中央競馬については、明治時代からの競走成績書や情報誌など、さまざまな資料が現存していて、それらをもとに『日本競馬史』をはじめとする歴史書や、いわゆる“名馬列伝”、“名勝負物語”の類いも数多く出版されてきた。
一方、地方競馬に関する資料はごくわずかしか残されていない。そもそも地方競馬という言葉は、1927(昭和2)年制定の「地方競馬規則」という省令から公式に使われるようになった。
それ以前にあった地方競馬に類するものは、よく言えば極めておおらかに、悪く言えば大ざっぱに行われていた。馬は開催直前の馬体検査日に近郷近在から集まり、合格すればレースに出られた(その基準が全国で統一されていたわけではない)。さらに、血統や品種についての制限は全くと言っていいほどなく、ふだんは農耕や物資の運搬などに使われていたような馬が当たり前のように競走していた。
「地方競馬規則」制定直前の1926(大正15)年に帝国馬匹協会が設立されると、これが今のNAR・地方競馬全国協会のような役割を担うことになる。同協会は1928(昭和3)年に地方競馬の登録馬名簿や競走成績を収めた定期刊行物・『地方競馬彙報(いほう)』を創刊。その多くが、今も北海道大学図書館やJRAなどに所蔵されていて、当時の様子を知るための貴重な手がかりとなっている。
戦前の地方競馬は、戦争の影響で1939(昭和14)年途中で休止され、翌年からは軍用保護馬鍛練競走(通称・鍛練馬競走)に取って代わられた。それに伴って『地方競馬彙報』は刊行停止となったが、帝国馬匹協会は『全国地方競馬沿革誌』と『全国地方競馬場写真帖』を相次いで刊行し、地方競馬開催の証を残した。これらも、戦前の地方競馬に関する数少ない史料だ。
戦時下で始まった鍛練馬競走は1944(昭和19)年末まで続けられたが、戦況の悪化で休止に追い込まれた。それまでに行われた同競走の成績書などは現存していないと思われる。国会図書館の検索サイトで全国の公立図書館(市区町村立を除く)を対象に蔵書があるかどうかを調べても結果は「0件」。戦時下の競馬について書かれた研究論文の参考資料にも、そのようなものは記されていない。
戦前戦中の競馬と鍛練馬競走は、軍馬の増産増強を究極の目的として行われた。しかし、終戦とともにその根拠となる法律が失効し、競馬を取り締まる法律が存在しない状態となった。この時代に全国各地でまさに“雨後の筍”のように開催されたのが闇競馬。語感からすると法の網をかいくぐって行われた競馬、と思われるかもしれないが、実際には都道府県知事の認可や地方独自の条例などに基づく公認の競馬だった。
もちろんこの時代の資料も皆無と言っていい。終戦直後の物資不足で新聞は大手でも4ページ立て。競馬の復活はビッグニュースの1つで、限られた紙面の中に開催を知らせる記事や広告はいくつも掲載されているのだが、競走成績などは全くと言っていいほど見られない。
1946(昭和21)年11月に新たな法律が制定され、地方競馬は地方公共団体の主催で再スタートを切った。しかし、1962(昭和37)年8月1日に地方競馬全国協会が設立されるまでは、全国規模で出走馬登録名簿や競走成績書をとりまとめる組織は存在しなかった。南関東地方競馬(大井、川崎、船橋、浦和)の成績やニュースなどは、競馬新聞社が発行していた月刊情報誌でかなり細かく知ることができるものの、それ以外の地方競馬事情を知ることはかなり難しい。ちなみに、地方公共団体には公的文書の保存期間を定めたルールがあり、よほどの重要文書でないかぎり、その多くは10年ほどで廃棄されるそうだ。したがって、終戦直後からNAR設立までの10数年間の地方競馬に関する資料が主催都道府県や市町村に保管されている可能性は極めて低い(どこかに残っていても、それらを見つけ出すのはほとんど不可能だろう)。
こうした経緯がありながらも、地方競馬の歴史を総合的に綴った『地方競馬史第1巻』が1972(昭和47)年にNARから出版された。同書は2012(平成24)年に『第5巻』が刊行されたが、それからすでに14年が経過した。当連載は同書『第1~5巻』の“追補”になることを目指している。ただし、ここまでザックリと説明(言い訳?)してきたように、“補完”するまでの史料が乏しく、ハッキリ言って中途半端な記述にとどまってしまうに違いない。どうかそのへんをご理解の上、気楽にお読みいただければ幸いだ。なお、昔の新聞記事や文書などを引用する際は、旧漢字を同義の新漢字に、旧仮名づかいを現代仮名づかいに書き換えたほか、句読点の省略、付け足しなど多少の“加工”を施した。
また、ここまでのことは次回以降の当連載をお読みいただく際にも共通の大前提となるのでご承知おきのほどを。
兵庫県地方競馬の始まり
長々と前置きを書いてきたが、いよいよここからが本題。第1回は、兵庫県地方競馬についての話だ。
同県で「地方競馬規則」による競馬が始まったのは1928(昭和3)年5月13日。競馬場は宇治川電気藤江駅の北側に新設された。宇治川電気は関西地方でいくつかの電鉄会社を傘下に収めていた電力会社で、その電鉄部が山陽電気鉄道の前身にあたる。同社は沿線開発の一環として競馬場を建設、所有した。
競馬場の開場式は同年5月9日に行われたものの、11日からの3日間を予定していた開催は悪天候により2日間順延された。主催は兵庫県畜産組合連合会。「地方競馬規則」によって、競馬を開催できるのは、各地の畜産組合、地域別に組織された畜産組合連合会、または馬匹改良を目的とする団体に限定されていた。兵庫県内ではいくつかの畜産組合が競って認可を求めたが、最終的に連合会主催の競馬だけが開催を許された。
競馬以外には野球と相撲くらいしかスポーツのビッグイベントがなかった時代。地方競馬の開催は地域にとっての一大事だった。また、ラジオ放送は始まったばかりで、新聞が唯一無比の報道機関だった頃でもある。明石競馬の開幕に際しては、『神戸新聞』、『神戸又新(ゆうしん)日報』が大きな見出しでその様子を報じた。
それらの記事や『地方競馬沿革誌』によると、同競馬場は1周1000メートルの馬場と、1万人を収容できる観覧スペースを擁する「地方競馬には珍しい大規模のもの」(1928年5月6日『神戸新聞』)だった。
兵庫県地方競馬の歴史的第一歩となった同13日の様子は、翌14日付けの『神戸新聞』が「駆る駿馬の姿に見入る五万観衆の眼 鉄蹄砂塵を巻きおこすところ 歓声ワッと嵐の如く沸き起こる」という見出しで興奮気味に伝えた。少し長くなるが、記事の一部を引用する。
「気づかわれた夜来の雨も朝になってカラリと晴れ、来る電車も来る電車も競馬見物のお客ですし詰め満員、神姫沿線はもちろん、京阪地方からも続々と押しかけ、潮のように競馬場へ吐き出されて、さしもに広い場内も一等、二等、三等各席を通じて真っ黒い人の波が揺れつ動きつ」
「かくて午前十一時、爽やかな初夏の風薫る頃、若草の中に陽が輝き、遠く白旗がサッと流れて、待たれる第一回の競馬は開始された」
「カツカツの鉄蹄砂塵を巻き、歓声ワッと揚って必死の戦いが現出された。駿馬の空をきって弾丸の如く駆ける姿よ!その姿を追って、焼けつく眼光をそそぐ幾万の眼よ!白熱!火花を散らす猛闘はかくして次から次へと行われてゆくのであった」
第1回明石競馬では、3日間ともに騎乗速歩1レースと駆歩9レースのあわせて10レースが組まれた。駆歩には内国産馬の競走に加え、県内産馬限定戦があった。開催前の馬体検査で体格などをもとにクラス分けが行われ、クラスが上がるのにしたがって出走するレースの距離が長くなるように設定された。
当時の地方競馬や公認競馬(今の中央競馬)に共通していたのが、初日と2日目に勝ち抜けの予選レース、3日目に決勝(優勝戦)と敗者戦を行うという方式。初日の予選で負けた馬が2日目の予選に勝てば3日目の優勝戦に出られるので、3日間で3回走る馬も多かった。初回明石競馬の最終日最終レースに行われた内国産最上級馬による優勝戦を制したのはアケボノで、初日の予選レースに勝った馬だった。
淡路島でも競馬
第1回明石競馬開催の直後、「地方競馬規則」が改正され、兵庫県内では2カ所で地方競馬を行うことが可能になった。すると、大正年間から地元有志が馬場を造成して競馬大会を催していた淡路島の市村(いちむら。当時の三原郡にあった村。今の南あわじ市中心部にあたる)が認可され、1929(昭和4)年4月11日からの3日間の日程で第1回淡路競馬が行われた。
明石に次ぐ2カ所目の競馬場開設についても、県内各地で激しい誘致合戦が繰り広げられたという。その中で淡路島への新設が認められた要因には、平坦な土地が多く馬耕が盛んで、県内有数の馬産地だったことが挙げられる。
一方、1912(大正2)年には、洲本城址を擁する三熊山の中腹に地元の資産家(匿名)が競馬場を建設し、当時の洲本町に寄付。それ以降、この競馬場では定期的に草競馬が開催され、地元の名物になっていた。
それなら、洲本が明石に次ぐ県内2番目の地方競馬場として認められていてもおかしくない。それが島の内陸部にある市村の競馬場になったのはなぜか?その理由は不明だが、競馬場の認可を受けるには1周1000メートル以上の馬場を備えていることが地方競馬規則で求められていた。同規則制定から1932(昭和7)年末までは800メートル以上あれば可とする猶予期間内だったものの、三熊山競馬場はこの最低条件に達せず、山の中腹にあって馬場拡張もできなかった、と考えられる。
さて、首尾よく誘致に成功した市村の淡路競馬は、開幕直前になって突如逆風にさらされた。地元の村長が「馬は見るとも馬券は買うな」という主旨のパンフレットを配布したり、ポスターを貼り出したりしたのだ。当時の地方競馬の馬券は後述する優勝馬投票という形をとっていたが、村長は、その行為は一種の賭博で利益を得るより損をすることのほうが圧倒的に多く、村の疲弊や一家破滅を招く、と主張。一方、主催者は洲本地方裁判所に対し、規則で認められた競馬開催への妨害と出版法違反の疑いで村長を告訴した。
それでも競馬は予定どおりに開幕した。訴訟に関する新聞の続報は見当たらず、村長と主催者は和解したようだ。ところがその頃、人口の多い阪神地区から競馬場のある市へ行くには船と鉄道を乗り継がなければならず、極めて不便だった。ちなみに大阪天保山・洲本航路の所要時間は約3時間半~4時間。神戸・洲本間の船は約2時間半かかった。さらに洲本から市までは蒸気機関車が牽く列車で約40分を要した。そのため、新聞各紙が盛況と伝えたものの来場者は少なく、収入の大半を占める入場券の売上げは、主催者が期待していた約15万円の半分以下にとどまった。村長による「馬券買うな」の呼びかけも響いたかもしれない。
淡路競馬は同年秋と翌1930(昭和5)年春にも開催されたが、入場券の売上げは明石の半分程度で推移した。そこで、兵庫県畜産組合連合会は都市部への移転を計画する。もちろんここでも誘致合戦が勃発。さらに淡路では移転反対運動も起こった。同年10月1日付けの『神戸新聞』には、阪急沿線への移転説が伝えられたことを受け、姫路への誘致を目指す同市畜産組合などの有志が、県畜産組合連合会の会長に面会して、その真偽を確認し姫路移転を直談判するため神戸に向かう、との記事が載っている。また、淡路の移転反対運動もたびたび新聞紙面で報じられた。それらを繋ぎ合わせると、同年9月末までには阪急沿線への移転話が持ち上がり、誘致に積極的だった姫路がその阻止に乗り出し、さらに淡路の抵抗などもあって、移転先の決定が難航していたことがわかる。
淡路島から園田へ
こうした綱引きは同年11月1日にようやく決着した。最終的に県知事から移転先として認可を受けたのは当時の川辺郡園田村。大阪と神戸の間に競馬場を作れば、大きな収入が得られると目論んだ県畜産組合連合会が知事の決断を後押ししたようだ。
その後、工事が急ピッチで進められ、わずか2週間ほどの工期で1周1000メートル、幅26メートルの馬場と3000人収容のスタンドを備えた新競馬場が竣工。12月19日から3日間にわたって、第1回秋季園田競馬が開催された。これが、今も続く同競馬の始まりだ。
左=1930(昭和5)年12月18日付け『神戸新聞』
右=同17日付け『神戸又新日報』
競馬開催にあわせて、阪神急行電鉄(今の阪急)神戸線には臨時駅が設けられた。ところがこれには阪急内部に反対論があったという。開幕を3日後に控えた12月16日、『神戸又新日報』が、新競馬場オープンを伝える記事の中で以下のように報じている。
「阪急重役間には、スピード時代に仮停留所を設けることは運転系統に大支障を及ぼすからと、強硬な反対意見を述べている向きがある」
鳴尾競馬や甲子園の中等学校(今の高校)野球大会などに伴う観客の大量輸送をお家芸にしていた阪神電鉄とは対照的。「待たずに乗れる阪神電車」、「待っても速い阪急電車」と言われたように、速さが自慢だった阪急は、沿線の競馬場新設を会社全体で歓迎していたわけではなかった。それでも阪急は、予定どおりに臨時駅を開業、車両の増結などを行って観客輸送にあたった。
第1回園田秋季競馬は、3日間に8万人を超える観客を集め、入場券の売上げは52万7000円余りを記録。同年春に行われた最後の淡路競馬に比べて観客数は約4倍、入場券売上げは約5倍に達した。
戦前の明石、園田競馬は1938(昭和13)年春に最盛期を迎えた。『全国地方競馬沿革誌』の「年次別成績」には、有料入場者数が明石34万人余り、園田65万人余りと記されていて、『地方競馬史第1巻』もこの数字をそのまま転載している。
ところが、この時の開催日数は両競馬場ともに4日間だけ。そうすると、1日平均の入場者数が明石で約8万5千人、園田では15万人強となってしまう。しかも、この開催の数字が突出しているわけではなく、その前後の成績を見ても、とんでもない数の入場者数が記録されている。オグリキャップが勝った1990(平成2)年の有馬記念当日に中山競馬場で記録された入場者数は約17万8000人。それに匹敵するような観衆が昭和10年代の園田競馬場に詰めかけた、なんていうことは絶対にありえない。これはどういうことか?
当時の法律では、地方競馬は馬券発売を認められていなかった。その代わりに行われていたのが優勝馬投票。簡単に言えば、有料で購入する入場券に優勝馬投票券が付いていて、投票所ではそれを提示して単勝式または複勝式の投票を行う、というもの(複勝式は1931=昭和6年に導入)。そして、投票できるのは1レースにつき1票だけ。複数の馬に投票したり、1頭の馬に重ねて投票したりすることはできなかった。
しかしそこはまさしく“蛇の道はヘビ”。客は競馬場の出入場を繰り返し、投票券付き入場券を何枚も手に入れたのだ。また、優勝馬投票では、的中すると現金ではなく応分の商品券が交付された。当然ながら、その商品券では投票はできない。的中者が配当を後のレースに注ぎ込むには、いったん競馬場を出て、近くで待ち構えている“私設景品交換屋”(この仕組みができて“自然発生”した商売)で商品券を換金し、改めて入場券を買って再入場する必要があった。
いずれにしても、客にとっては手間がかかる。そこで、主催者の中には、ファンサービスの一環として(?)、取締の眼をかいくぐって客1人に何枚も入場券を発売した主催者があったという。
こうした行為は違法なのだが、主催者にとっては入場料収入が売上げそのものであり、取り締まる側の警察も、売上げアップが馬匹改良や軍馬の増産増強に繋がるとしてほぼ黙認していた。
つまり、『全国地方競馬沿革誌』に記された有料入場者数は“延べ人数”だった。同誌や『地方競馬史』で戦前の開催成績を見る際には、そのことを頭に入れておく必要があると思う。
地方競馬から鍛練馬競走へ
戦前の黄金期を迎えた兵庫県地方競馬も、同年末限りで幕を閉じた。理由は先述した鍛錬馬競走への移行。それを実施できる競馬場は1道府県(東京府が東京都になる前のこと)につき1カ所とされ、明石競馬場は廃止、園田が存続した。その後、明石競馬場の跡地は所有者の山陽電気鉄道により住宅地として開発された。
鍛練馬競走では優勝馬投票ではなく、現金をやりとりする馬券の発売が認められた。同競走は引き続き兵庫県畜産組合連合会が施行したが、その実績や競走成績に関する資料は残っていない。1941(昭和16)年4月に発行された『兵庫県畜産組合連合会二十年史下巻』を見ても、鍛錬馬競走についてはたった1行、「昭和十五年度より実施」と書かれているだけだ(実際にはその前年度から始まったはずだが、同書にはそう記されている)。
鍛練馬競走は、戦況の悪化に伴い、1944(昭和19)年末限りで休止された。これをもって、兵庫を含む戦前の地方競馬は歴史の幕を閉じた。
戦後の再開は淡路島から
戦後の一時期、兵庫県内でも競馬実施の根拠となる法律が存在しない間に“闇競馬”が行われた。1946(昭和21)年11月18日付け『神戸新聞』に「初日は二十七万円 淡路の青木競馬」という見出しの小さな記事が載った。それは次のように報じている。
「三原郡市村青木競馬第一日は十六日午前十時から開始。出場馬百十頭。足下から鳥が立つように急にやり、宣伝の足りなかった結果、案外入場者少なくざっと五千人、馬券売上げ二十七万円、一人二千円が一番大口だった。穴は第三競馬マルタカ号七百六十円で、結果次の通り」
これに続けて、第1レースから最終第10レースまでの1~3着馬(少頭数のレースは1、2着馬)の一覧が掲載された。
記事にあるとおり、この競馬は園田競馬の前身となった淡路島市村の競馬場で行われた。開幕日は11月16日。戦前の競馬のような3~4日間の日程で順延がなかったとすれば、同月18日か19日に最終日を迎えたはずだ(それを記した記事は見当たらない)。そして、その直後の11月20日に「地方競馬法」が施行された。したがって、この競馬はいわゆる闇競馬だった。
ともあれ、先の記事は戦後の新聞紙面に初めて掲載された兵庫県地方競馬の様子を伝えるものだ。これ以前に知られざる闇競馬が行われていた可能性はあるものの、ここでは1946(昭和21)年11月16日開幕の淡路島・青木競馬が戦後の同県地方競馬の始まり、としておく。
写真右・淡路競馬場コース跡。左奥の建物のあたりにスタンドがあった 2019(平成31)年4月16日・筆者撮影
園田競馬の復活と姫路競馬のスタート
青木競馬の開幕が報じられた前日、11月17日付けの同紙紙面には「園田競馬十二月から」という記事が載った。今度はそれを転載する。
「競馬再開の波に乗って、長岡、奈良、草津などの関西地方競馬は公認競馬に先立ち、いちはやく豪華なスタートを切り、(中略)その売上高も一日五百万円をはるかに上回るものすごい景気を見せているが、兵庫県の園田競馬もファンの期待に応え、いよいよ来る十二月五日からと明春一月二十日からのそれぞれ六日間にわたって連続開催されることに内定、目下、荒廃した馬場の整備その他□設備の復旧を急いでいる」(□の文字は判読不能)
この記事からわかるのは、京都、奈良、滋賀では地方競馬法施行前に競馬が行われ、かなりの売上げを記録していたこと。それは500万円を超えていたのだから、淡路・青木競馬の27万円というのはあまりにも少ない。戦後、馬券が買えるようになったと言っても、京阪神などからわざわざ船に乗って島の競馬に繰り出した人は少なかったのだろう。
園田競馬の再開に時間がかかったのは、戦時中に施設が軍に接収され馬場が耕作地に代わり、戦後はそれが放置されていたから。それに加え、厩舎が失火によってほぼ全焼していた。
突貫工事によって仮復旧の形を整えた園田競馬場での戦後初開催は、報じられたとおり、1946(昭和21)年12月5日に開幕した。翌日の『神戸新聞』は、その様子を写真入りで次のように伝えた。
「地方競馬法実施以来県下で初の競馬である兵庫県馬匹組合主催・園田競馬は憲法公布記念競馬の鳴り物入りで、五日、初日の蓋を開けた」
これに続き、前半第5レースまでの馬券売上げは京都長岡、大阪春木に比べて少なかったが、上級馬が出走した後半になるとファンも増え、1レース平均の売上げが50万円ほどになったこと、さらに「駆歩、速歩とも淡路馬など県内産馬も出場、大いに気焔を吐いていた」ことが報じられた。
なお、6日間連続開催というのは、前後期3日間ずつの開催を続けて行うということ。そのことからすると、先の淡路・青木競馬は3日間開催だったと考えられる。
同年10月には日本競馬会の主催で公認競馬(今の中央競馬)も再開されたが、鳴尾の阪神競馬場が軍需工場に転用されていたため、関西の開催は京都競馬場で復活した。1946(昭和21)年暮れの園田競馬は、兵庫県内で戦後初めて行われた正規の開催と言える。
園田競馬に次いで、1947(昭和22)年には淡路競馬も正規のスタートを切った。今度は園田と淡路の2場態勢が整った。
しかし、それにはすぐに終止符が打たれる。戦前と同様、淡路の開催実績が振るわなかったからだ。そしてまたしても淡路の移転話が持ち上がる。
ここでかつての悲願を叶えたのが姫路だった。1949(昭和24)年9月28日から10月5日まで、9月30日と10月3日を除く6日間にわたって、新設された姫路公園競馬場で市主催による第1回の競馬が開催された。それを前に『神戸新聞』に掲載された広告には「山陽人待望」、「近代的設備を誇る」、「新時代が生んだ希望溢るる競馬場・実現」などの文言が踊っている。
左=1949(昭和24)年9月27日付け『神戸新聞』。神姫合同自動車がバス大増発をPRしている
右=同日付け『朝日新聞兵庫版』。同じ面に2つの広告が載っている
ただ、初回の競馬を前にちょっとした揉め事があった。開催日に姫路市営バスが姫路駅前と競馬場とを結ぶ臨時バスを運行させることにしたのだが、これに神姫バスが猛反発した。同社はそのルートにドル箱路線を持ち、1日80回以上も大型バスを走らせていたからだ。結局、市営バスが引き下がったようで、開催広告には神姫バスの大増発だけが示されている。
正規の競馬の舞台が姫路に移され、戦前と同様に淡路・青木競馬は短命に終わった。とはいえ、園田も姫路も、そのルーツは淡路にあったわけだ。
戦後しばらく、両競馬場では県外の地方競馬同様、さまざまな種類の馬が走っていたが、いつしかアラブ系馬だけでレースを行うようになった(その正確な時期は特定されていない)。1962(昭和37)年に第1回の競走が行われた園田銀盃は、何度かレース名を変え、1973(昭和48)年からは楠賞全日本アラブ優駿と銘打って施行された。これには全国からアラブ系の現3歳馬が参戦して日本一の座を争ったので、“アラブのダービー”という別名も付いた。また、こうした重賞を看板レースに据えた園田競馬場は“アラブのメッカ”とも呼ばれた。
アラブ系馬競走の縮小に伴い、兵庫では1999(平成11)年6月からサラブレッドの競走を実施。2004(平成16)年8月17日の第2競走・アラブ系3歳以上C-1のレースが、兵庫県地方競馬で最後のアラブ系馬限定戦として行われた。このレースを制したハッタユーノスの血統表を見ると、父系にビソウエルシド、ニホンカイユーノス、母系にタガミホマレ、タイムライン、スマノダイドウ、ハツタダイドウといった、かつて兵庫のレースで大活躍した馬たちの名前がズラリと並んでいる。
園田競馬は、戦争による中断はあったものの、100年近くにわたって続けられてきた。戦後にスタートした姫路競馬も、もうすぐ開設80周年を迎える。ファンのみなさんには、末永く両競馬場のレースを楽しんでいただきたい。









矢野吉彦(やのよしひこ)
1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は293カ所に及ぶ(2026年3月末現在)。