2024年から兵庫三冠は菊水賞→兵庫優駿→園田オータムトロフィーと改定され、早くも昨年オケマルが偉業達成となったわけだが、それまでは2戦目にJRA馬が遠征してくる兵庫チャンピオンシップがあった。これが大きな壁となり兵庫勢はせいぜい二冠が精一杯。
しかしながら、ただ一頭だけJRA勢を封じ込んで三冠ロードを驀進した馬がいる。それがロードバクシンだ。
兵庫県にサラブレッドが導入されたのが1999年、同馬はその翌年のデビューだからそれまでのアラブ三冠からサラ三冠に移行されての初年度での達成。
それはそれは湧いた、盛り上がった。
初勝利を挙げたのはデビューから3戦目。距離が1400mに延びての初戦だっただけにサクラバクシンオー産駒の小柄馬でもスタミナはあった、おそらくトンでもなく心臓も強かったのだろう(しらんけど…)。
その後は順調に勝ち進み、初めての重賞、初めてのJRA勢との戦いとなる兵庫ジュニアグランプリでは中団からしぶとく伸びての4着。この時点から強豪相手でもそれなりやれるかなぁの手ごたえは掴んだ感じはする。
続く暮れの園田ジュニアカップで初重賞を射止めてからは完全にスター街道。三冠達成となる菊水賞までは7連勝の快進撃だった。
さぁこうなると次なるターゲットは他場制覇。
2カ月半後の盛岡ダービーグランプリに目標を定められたわけで、初めての左回り対策として追い切りも逆回り。
本来のゴールまで残り100m地点をフィニッシュに見立てて変則的に(これは時計を採るのになかなか苦労させられたなぁ)。
そして盛岡、当方も応援にも駆け付けたが、これがまったくもって予想外の大差負け。左回りに戸惑ったことも確かだが、得意としない夏場の長距離輸送の方が堪えたか、現地到着後は本来のカイバ食いでもなかったようで当時、管理した曾和調教師自らが競馬場周辺を駆け回り新鮮な青草を刈ってきては懸命に与えていたという裏話もある。
しかし、その1カ月後の姫路ではキッチリ勝っているのだから一体どこまでタフだったんだろうか。
4歳になっての初戦は1月に行われていた六甲盃(現6月)。初めて古馬重賞を制したことで一層、波に乗ることに。しかも苦手意識のあった夏場を完全リフレッシュに充てたことで秋の姫山菊花賞は当時のレコード駆けを成した。
ただ、この直後ぐらいからだったかな、何となく以前ほどのパフォーマンスではなくなってきたのは…。
連覇を狙った六甲盃もひとつ年下、破竹の勢いで上がってきたホクザンフィールドに適わなかったし、播磨賞5着、兵庫大賞典2着、フレンドリーカップ7着(地元重賞初着外)園田金盃3着、兵庫ゴールドトロフィー6着と結局5歳時は重賞に縁がなかった。
6歳となった2004年、ここで同馬にとっては実にショッキングな出来事が発生する。ナンと絶好のパートナーだった小牧太JがJRAに移籍することに。それに伴いこのあとの主戦は岩田Jが務めることになるのだが、却ってこれがいい刺激にもなったか、息を吹き返す。
前年同様、夏に無理しなかったことで秋初戦の楠賞から園田金盃、翌年の兵庫大賞典と重賞3連勝、その後も1、1、2、1、2、2着でこの7歳時は7戦オール連対の活躍ぶりで明けて8歳初戦新春賞もその勢いのまま鼻、頭差の激しい叩き合いを制した。
しかししかし、ここでショッキングPARTⅡ。
今度は岩田JがJRAへ移籍することに。
あとを引き継いだのは川原J。初コンビ初戦は4着だったものの次走、兵庫大賞典逃げ切りで同戦連覇を飾る。このあと夏場はこれまで通りリフレッシュに宛て秋2走目の楠賞は僚馬ジョイーレとの叩き合いで頭差勝利。背は同馬初騎乗の有馬J(現調教師)だった。
ただ、もうここらが限界だったかな、翌年9歳、新春賞後に引退種牡馬入りとなる。
そんな第二の馬生を喜んだのも束の間、ここでショッキングPARTⅢ。
検査の結果、種牡馬としての働きが難しいということが判明し、オーナー変更後の翌年5月には笠松でまさかの現役復帰。
その3カ月後には7番人気低評価ながらも10歳8カ月にして重賞制覇した。
11歳秋に長年のエースだった小牧太Jと騎手学校時代の同期でもある高知田中守師の元で完全引退となる。
通算成績82戦36勝、うち重賞12勝。
小さな体ながらも本当にタフな馬だった。
引退後は霧島山麓の功労馬が暮らす牧場でゆっくり。その話を聞いて5、6年前だったか、鹿児島へ行った際に立ち寄ってみたが、残念ながらどの馬がロードバクシンなのか、まったく分からなかった。まぁ同じ毛色馬を撫でて来たのであの馬がバクシンだったと勝手に思い込んでいるが…。
今も元気に暮らしているかな?
当時を振り返って担当だった山根厩務員(現飯田厩舎所属)は、
「普段はおとなしかったし、扱いやすかった。追い切りも単走だと動かないのに併せると滅法動いた。ただトモ脚つま先から力強く着地するフォームだったので鉄唇がすぐにちびった。当時はまだ接着固定がなかったのでその都度の打ち換えで次はどこに釘を打ち込むか、年を重ねてからは相当な装蹄師さん泣かせだったね」と。
また、主戦だった小牧太Jは、「決していい歩様とはいえなかった。それもあって深い馬場よりも軽い方が良かった。二冠目のチャンピオンシップはビシャビシャの馬場で前もガンガンやってくれたので展開が嵌った、運もあった。でもあのレースに勝った兵庫県馬はこの馬だけだからね、大したもんだよ。ズブくて気の抜けないタイプだったが、根性があった。忘れられない1頭です」と話した。
どの段階でだったかは完全に忘れてしまったが、滋賀県の坂路施設まで出向き追い切りをかけてきたこともあった。当方、初めて馬運車に乗せてもらったのもこのとき、坂路調教を見せてもらったのもこのとき、色々いい経験をさせてもらった、私にとっても忘れ得ぬ名馬である。
提供:兵庫県競馬組合





北坊敦(きたのぼうあつし)
1964年12月18日 大阪府出身
競馬記者歴は競馬キンキ所属の頃から数えると42年ほど。
厩舎取材担当し、厩舎関係者とのやりとりから得た情報をヒントに予想を組み立て、近走内容、追い切りの気配を予想スタンスに加えている。