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アジュディミツオー引退、そして再出発のとき

取材・文:斎藤修
写真:いちかんぽ、NAR
■幾多の記録を残し、引退

 数々の大記録を残し、ダートグレード戦線を盛り上げたアジュディミツオーの引退式が11月18日に船橋競馬場で行われた。
 前日は1日中しとしとと雨が降り続き、そして翌日もこの秋一番という冷え込みで冷たい雨。よくぞ引退式のこの日だけ、ピンポイントで真っ青な空が広がってくれたものと思う。
 
2005年 ドバイワールドカップ
 アジュディミツオーのGI・5勝は、アブクマポーロの4勝を上まわり、地方所属馬では単独トップ。通算獲得賞金5億9640万3000円(ドバイワールドカップでの1230万3000円も含む)は、アブクマポーロの8億2009万円に次いで2位。東京大賞典2年連続制覇は史上初。地方所属馬として史上初の海外遠征も果たした(05年ドバイワールドカップGI・6着)。
 また、NARグランプリでは、05、06年に年度代表馬のタイトルを受賞。東京大賞典でGI初制覇を果たした3歳時の04年にも年度代表馬の候補となったが、この年は中央のクラシック戦線を盛り上げ、ジャパンカップGIでも2着と好走したコスモバルクが年度代表馬のタイトルを獲得。ちなみにコスモバルクがシンガポール航空国際カップGIを制した06年は、GI・3勝を挙げたアジュディミツオーに軍配が上がっている。
 コスモバルクとは年度代表馬のタイトルで何度か激しい争いとなったが、活躍の舞台がダート、芝とはっきり分かれていて、同期にもかかわらずレースでは一度も一緒に走ることがなかった。今にして思えば何か不思議な気もする。
 
内田騎手を背にラストラン
 第4レースが確定した正午過ぎ、4コーナー方向の厩舎地区からアジュディミツオーが馬場に現れた。背には、数々の大レースで勝利に導いた主戦の内田博幸騎手。もちろん大井所属時代のおなじみの勝負服だ。
 徐々にスピードに乗ってキャンターで馬場を1周すると、折り返して再びスタンド前に戻り、ファンに最後の勇姿を披露した。その走りには「まだ現役でやれるのでは」との声も多く聞かれた。

■内田博幸騎手の飛躍

 
2004年 東京大賞典
 08年に中央に移籍した内田博幸騎手は、2年目の今年、中央での勝ち星は132(11月18日現在)。武豊騎手に10勝の差をつけ、リーディングのトップに立っている。中央に移籍する際に掲げた「中央でも一番になる」という目標も手の届くところまで来ている。
 内田博幸騎手の中央でのこの活躍も、アジュディミツオー抜きには語れない。「地方でやれるだけのこと、悔いを残さない活躍をさせてくれた馬」だと言う。
 アジュディミツオーで南関東の主要タイトルを制したこと、そして佐々木竹見元騎手の年間最多勝記録の更新、この2つがなければ、あのタイミングでの中央移籍はなかったに違いない。
 思い出のレースはと問うと、「思い出は、雪の中の(東京)大賞典(04年、3歳時)【成績映像】。名勝負は、カネヒキリを負かした帝王賞【成績映像】」と、間髪を置かずに返ってきた。
 
2006年 帝王賞
 たしかにあの06年の帝王賞は、歴史に残る名勝負と言って間違いない。
 ゲートを飛び出してマイペースで逃げるアジュディミツオー。3馬身ほどの差で追いかけるカネヒキリ。4コーナーでカネヒキリがアジュディミツオーに並びかけた。しかし直線を向いてアジュディミツオーが追い出されると、1馬身以上には差は詰まらずそのままアジュディミツオーが逃げ切った。勝ちタイムは2分2秒1。その後、帝王賞や東京大賞典で中央の強豪が強いレースを見せているが、いまだに破られていない大井2000メートルのレコードだ。
 「二度、ああいうレースができるかどうか、生涯忘れることができない、宝ですね」(内田博幸騎手)。
 驚異的なレコードを叩き出したレースで消耗したのかどうか、アジュディミツオーにとっては、結果的にこの帝王賞が最後の勝ち星となった。

■ダービーの鞍上、故・佐藤隆騎手

 アジュディミツオーの鞍上でもうひとり、忘れられないのが佐藤隆騎手だ。手綱をとったのはデビュー2戦目からわずか5戦だが、その勝ち星の中には、デビューから4戦無敗で制した東京ダービー【成績】のタイトルがある。
 
2004年 東京ダービー
 その東京ダービーは、デビューから5戦全勝で京浜盃まで制したベルモントストームが断然人気。鞍上は、アジュディミツオーのデビュー戦で手綱をとっていた石崎隆之騎手。そしてこの時期から川島正行厩舎の主戦となっていた内田博幸騎手は、ダーレーが日本に送り込んだ最初の世代の1頭、ゼレンカの鞍上にあった。
 アジュディミツオーはスタートで半馬身ほど出遅れたが、やや掛かりぎみに先頭に立ち、ペースを握った。3コーナーではベルモントストームに迫られる場面もあったが、直線では後続を突き放し、2着のキョウエイプライドに2馬身半差をつける完勝だった。
 ご存知のとおり、佐藤隆騎手は06年4月の浦和競馬でのレース中に起きた落馬事故が原因で命を落とした。
 同世代では、船橋の石崎隆之騎手、大井の的場文男騎手がリーディングを争うなど華々しい活躍をし、ともすれば佐藤隆騎手は、その影に隠れたような存在だった。しかし川島正行厩舎の所属馬では、サクラハイスピードで川崎記念や東京盃(2連覇)を制し、牝馬のネームヴァリューで帝王賞を勝利するなど、数々のビッグタイトルを手にしている。
 今でこそ、東京ダービーの先にはダートグレードのジャパンダートダービーJpnIというタイトルがあるが、中央・地方の交流が盛んになる以前から活躍していた騎手や調教師に、南関東でどのタイトルが欲しいかと問えば、まず間違いなく「東京ダービーと東京大賞典」という答えが返ってくる。
 アジュディミツオーは、南関東でいぶし銀のように活躍したベテランジョッキーに、憧れのタイトルのうちのひとつをもたらした馬でもあった。

■父の夢を叶えた奇跡の馬

 オーナーの織戸眞男さんには、06年の帝王賞を制したあとにじっくり話を聞かせていただいたが、アジュディミツオーはまた、奇跡の馬でもあった。
 
ミツオーの母 オリミツキネン
 母のオリミツキネンは、船橋に所属して8勝を挙げ、クイーン賞GIIIでも4着に入るなど活躍。オリミツキネンを所有していたのは、眞男さんの父である織戸光男さんだ。
 光男さんは、オリミツキネンの初仔、のちのアジュディミツオーが生まれて間もなく、96歳で亡くなられた。必然的に息子の眞男さんがアジュディミツオーを所有することになった。
 眞男さんは、そのずっと以前に1頭だけ競走馬を所有したことがあったが、仕事の関係からその後に馬を所有することはやめていた。つまりは、アジュディミツオーが2頭目の所有馬。それが、地方競馬の歴史や記録を塗り替えるほどの活躍馬になるのだから、まさに運命としか言いようがない。
 
2004年 東京ダービー 口取り
 織戸光男さんもまた、東京ダービーがどうしても獲りたいと願っていたひとり。晩年も、ずっと東京ダービーのことを口にしていたという。
 そうした父・光男さんの生前の強い想いもあり、眞男さんにとってもっとも印象に残っているレースは、東京大賞典でも、帝王賞でもなく、やはり一番は東京ダービーとのこと。その念願のダービーをアジュディミツオーで勝ったことについては、「父のダービーを獲ることへの執念がよみがえってきた感じですよ」と語っておられた。

■次の世代に奇跡を繋ぐ

 アジュディミツオーが最後の勇姿を披露したあと、ウィナーズサークルではセレモニーが行われた。
 
セレモニー後の記念撮影
右から2人目が織戸オーナー
 まず挨拶に立ったオーナーの織戸眞男さんは、関係者にあらためて感謝の言葉を述べられた。
 内田博幸騎手は、「日本全国で名前を売り、勝ち鞍も挙げ、地方で勝たせてもらいながらJRAに移り、リーディングを獲ることが、川島先生をはじめ、みなさんに対する恩返しだと思っています」と抱負を語った。
 
地元での嬉しいGI勝利となった
2006年 かしわ記念
 川島正行調教師は、「ミツオーの仔が船橋で走る姿を応援してください」とファンに訴えた。
 アジュディミツオーは、種牡馬として静内のアロースタッドに繋養されることが発表された。
 セレモニーのあと、織戸眞男オーナーにひとつだけどうしても確認したいことがあった。
 実は06年の帝王賞を制したあとのインタビューでは、「(所有馬としては)2頭目のミツオーが最後で、今後馬を持つつもりはありません」と語っておられた。
 しかしアジュディミツオーが種牡馬として再出発が決まった今、その産駒を所有するつもりはないのかと。
 果たしてその返事は、「持つことになるんでしょうな、3頭目を」と。
 アジュディミツオーの奇跡と軌跡には、まだつづきがありそうだ。

     
史上初の東京大賞典連覇を達成
(2005年)
 
JRAの強豪を完封した川崎記念
(2006年)
     
凛とした表情の先にあるものは・・
(引退セレモニーにて)
 
パドックに掲げられた横断幕
(引退式当日)


 
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