荒尾競馬最終日レポート

2011年12月30日
荒尾競馬は役割を終える
しかしそこから始まる未来も
文/斎藤修
写真/いちかんぽ・NAR
■炭鉱の街で栄えた競馬

 同じ九州の中津競馬が廃止されたのが2001年3月。あれからの10年は、長かったのか、あっという間だったのか。その後、新潟(三条)、益田、足利、上山、高崎、宇都宮と競馬場の廃止が続き、しかし、笠松、高知、ばんえい、岩手など、ほとんど廃止の瀬戸際に立たされながらも存続した競馬場もある。
 現存する最古の競馬場と言われる荒尾競馬場は、残念ながら持ちこたえることができなかった。廃止については、たしかに主催者も責められるべきところはあっただろうが、周辺都市の人口の減少は、いかんともしがたいものがあっただろう。

スタンドから海が見える美しい競馬場だった
 荒尾市と隣の大牟田市は、明治期以降、三池炭鉱によって栄えた街だ。しかし石炭産業は、1950〜60年代の高度経済成長期に主なエネルギーが石油に取って変わった頃から徐々に衰退。その後の1980年の人口でも、大牟田市が約166,000人余り、荒尾市が61,000人余りあったものが、途中1997年には三池炭鉱の閉山があり、2010年にはそれぞれ127,000人余り、55,000人余りにまで減少している。
 全国的な競馬の衰退の原因としては、第一にレジャーの多様化が挙げられることが多いが、荒尾競馬の場合は、炭鉱という一大産業がなくなったことによる人口の減少と消費の低迷も大きかったのではないかと想像される。


■勝利の思い出をファンへ

 2011年12月23日、開催最終日となった荒尾競馬場は、有明海から吹く風こそ冷たかったものの好天に恵まれた。9時10分の開門を前に、最後の荒尾競馬を見ようというファンの行列もできていた。
 入場時には、馬場の砂が入った小瓶と、荒尾競馬の2012年のカレンダーが先着順で手渡された。
 
 そして入場門を入ってすぐの左手にはイベント用のテントが2つ。
 手前が厩務員会によるグッズ販売で、ジョッキーの写真&サインの入ったTシャツや、
馬のタテガミで作られた携帯ストラップ、リボンなどで飾り付けされた蹄鉄などが売られていた。そのテントの前では、小学生になるかならないかという子供たちがTシャツを手に元気に声を張り上げていた。おそらく厩務員のお子さんたちなのだろう。彼ら、彼女らは、今日で競馬が終わることの意味をどこまで理解しているのか。厩舎団地は近いうちに閉鎖され、仲のよかった友達とはなればなれになることで、その意味を理解するようになるのかもしれない。

 そして奥のテントの長テーブルには、昭和の時代から最近までの、重賞や特別レースを勝った調教師や騎手に贈られたと思われるトロフィーや盾などがところ狭しと並べられていた。数にして、少なくとも100以上はあったように思う。これらは、募金をいただいたファンに、ひとつずつあげてしまうのだという。募金と配布の開始は10時を予定していたようだが、開門直後から長い行列となっていまい、それはすぐに開始された。
 そこで対応していたのは、『厩舎団地町内会』または『荒尾競馬場調騎会』と書かれたハッピを着た、おそらくは調教師の奥様方なのだろう。一度にすべてのものは並べきれず、テントの奥ではダンボールから次々とトロフィーや盾が取り出されていた。さらにそのひとつひとつはきっちりと箱に収められていて、それを箱から取り出すときに、ほんの一瞬だがその手が止まり、トロフィーや盾が、いつの、何のレースのものだったのかを確認して、思い出に浸っているようにも見えた。
場内のイベントには長蛇の列ができた
 しかしその一瞬ののちには、機械的に長テーブルに並べられ、ファンに持ち去られていく。持ち去られていく、という表現はあまり適切ではないかもしれないが、本来であれば思い出として残しておくはずのものを、たとえファンとはいえ、見ず知らずの人にあげてしまうのだ。それはまるで、この日限りとなる荒尾競馬への想いを絶ち切ろうとしているかのようにも見えた。トロフィーや盾の配布は、開門からわずか1時間ほどで終了した。



■ネット時代の地方競馬

この日は約9000人が競馬場へ詰めかけた
 続々と来場するファンは午後まで途切れることはなかった。天皇誕生日の祝日ということもあっただろう、最終的に発表された入場人員は、8,935人。近年の荒尾競馬の1日平均と比較すると8倍から9倍になる。
 しかしレースは普段どおりに淡々と進んだ。そう感じたのは、関係者からは悲壮感らしきものがほとんど伝わってこなかったからかもしれない。むしろ笑顔さえ見られた。それは、調教師、騎手、厩務員ばかりでなく、場内のテントでグッズ販売や記念のトロフィー、盾の配布をしていた厩舎関係者の家族も同じだ。競馬をやっている限りは、普段どおりにきっちりと最後までやりとげる。寂しさや悲しさが押し寄せるのは、おそらくはすべてが終わったこの日の夜、もしくは翌日以降なのだろう。

 普段と違っていたのは、場内に溢れる多くのファンと、そして報道関係者の多さだ。特に目立ったのは、テレビカメラの多さだ。これまでいくつかの競馬場の最終日に立ち会ってきたが、競馬関係の記者やライターが多いのは当然として、場内や業務エリアのあちこちでいくつも見かけたテレビカメラの多さは、これまでに見たことがないほどだった。
 ここ10年ほどでも情報技術は目覚しい発達を見せた。たとえば中津競馬が廃止された10年前は、
インターネットがようやくビジネスの世界にも定着してきたかどうかという時代。携帯電話にしても、まだまだ持っていないという大人もかなりいたのではないか。それが今は、携帯電話やスマートフォンで、どこにいても世界中の情報が瞬時に得られるようになった。スポーツや公営競技の中でも、どちらかといえばマイナーな部類の地方競馬とはいえ、廃止になることが多くの一般メディアで大々的に伝えられるようになったのは、そうした情報技術の発達と無関係ではないだろう。
 かつて昭和から平成のバブル期まで、競馬が隆盛を誇った時代には、地方競馬は文字通りその地方だけのもので、少し離れたところでは馬券を買うことはおろか、結果すらなかなか知ることができなかった。それが、ネットを使えば全国のレース映像を見ることができ、どこにいても携帯電話やパソコンで馬券が買えるようになった時代に衰退の一途とは、皮肉としかいいようがない。


■競馬場廃止を乗り越え、未来へ

荒尾最後の重賞勝ち馬はJRAへ
 メインレースとして行われた最後の重賞、肥後の国グランプリは、このレース4連覇を狙ったタニノウィンザーが2着に敗れ、テイエムゲンキボが1番人気にこたえた。管理する平山良一調教師は、荒尾競馬の廃止と共に廃業するという。
 1928(昭和3)年にこの地で始まり、足掛け84年に及ぶ荒尾競馬の歴史に終止符を打つ最終レースには、荒尾所属の13名のジョッキーのうち、フルゲートの関係で12名のジョッキーが騎乗。残念ながら騎乗できなかった西村栄喜騎手と、そして荒尾でのデビューが予定されていた騎手候補生の小山紗知伽さんは、誘導馬に乗って登場した。最後のレースを制したのは、ベテランの牧野孝光騎手だった。
最終レースの誘導をする西村騎手(右)と小山騎手候補生(左)
文字どおりラストレースに勝利した牧野騎手

 レース後には、グランドフィナーレとして表彰台でセレモニーが行われた。
 調騎会の会長である平山良一調教師は、「まだまだ続けたいという気持ちでおりましたけど、これもしかたないかな、世の流れかなと思っております。今まで応援していただいてありがとうございました。ほんとうにわたしたちは幸せでした」と挨拶。

 牧野孝光騎手は、「騎手人生30年間やってきて、最後のレースも勝てて悔いはありません。このあとは北海道(育成牧場)に行きますけど、第二の人生に向かってがんばっていきたいと思います」と期待を語った。
 そして04年にデビューし、晩年の荒尾競馬を盛り上げた岩永千明騎手は、「今日は応援に来ていただき、ほんとうにありがとうございます。わたしは荒尾競馬場が大好きです」と、涙で言葉を詰まらせた。

 そしてセレモニーの最後にはサプライズも。この日に入籍したという佐藤智久騎手の結婚式が表彰台で行われた。牧師役は平山良一調教師だ。
 佐藤智久騎手は、10年前に中津競馬で騎手デビューの予定だったが、その直前に廃止。荒尾競馬場で騎手となった。
 「中津が10年前に廃止になって、ここ荒尾競馬場に身を寄せて、この荒尾の最後の日まで、騎手としてやってこられたことを幸せに思っています。それもここにいる調教師の先生方、ファンの皆様、そして多くの競馬関係者の方々に支えられてきたからだと思っています。そのおかげで、妻のめぐみとも知り合ったので、荒尾競馬で騎手をやってきてほんとうによかったと思っています。荒尾競馬は今日で最後になりますが、ぼくらは今からがスタートになります。本日はどうもありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
 新たなスタートということでは、吉留孝司騎手が浦和へ、西村栄喜騎手が船橋へ、杉村一樹騎手が川崎へ、岩永千明騎手が佐賀へ、宮平鷹志騎手がホッカイドウへの移籍がそれぞれ決まっている。また小山紗知伽さんは、免許試験に合格すれば佐賀でデビュー予定となっている。調教師では、幣旗吉昭調教師、松島壽調教師、頼本盛行調教師の3名が佐賀へ移籍する。
 年配の調教師や厩務員の中には、職を失うことになり、そうした人たちにとっては廃止によって痛みをともなうことになったのは残念だが、明るい未来も見える荒尾競馬の最終日だった。